魑魅魍魎

 何度も寝返りを打ってみても、親しみ慣れた暗闇の中で目を閉じていても、眠気がくることはなかった。
 いつもはすぐ眠りに落ちるのに、今夜はいつまで経っても頭の中に眠りの霧は立ち込めず、瞼は重たくならない。何度目かの寝返りをして仰向けになり、ついには寝ることを諦めて起き上がった。手探りでナイトテーブルに置いた携帯端末を掴んでディスプレイに表示されている時刻を確認すると、午前二時を回っていた。ベッドに入ったのは午後十一時過ぎだから、かれこれ三時間悶々としていたことになる。
——これじゃあ明日は寝不足だ。
 溜息が出た。 リラックスするために、食堂で温かいココアでも飲もうと、スリッパを引っ掛けて、部屋着のままベッドを出た。
 廊下は暗く、静まり返っていた。天井の夜間灯だけが数メートル間隔でぽつりぽつりと点っている。頼りないオレンジ色の朧げな燈を道標にして食堂へ向かった。こんな時間だから、きっと誰ともすれ違わないだろう。
 二つ目の角を折れ、真っ直ぐ歩いた。しばらくしてまた角を曲がり、黙々と歩いた。しかし、歩けども歩けども食堂に辿り着かない。
「おかしいな」
 独りごちて足を止める。歩くたびにぱたぱたと鳴っていたスリッパの音が止んて、静寂が廊下を走り抜けていった。
 頭上で夜間灯が弱々しく明滅して、燈が落ちた。それを合図にするかのように、前方で連なっていた燈が次々と消えていって、なにも見えなくなった。
 いや——奥に、なにかがいる。
 小さく息を呑んだ。得体の知れないなにかが暗闇の中にいる。輪郭を捉えようと目を見開くが、這い上がってくる恐怖と同じように形を成さないそれを視覚で捉えることができない。
 悍ましく、凶々しく、邪悪で強大なそれは、死の気配に似ている。わたしはこの気配を知っている。死を認識すると、こめかみから冷たい汗が伝い落ちていった。それでも、努めて平静にどこまでも続く闇を凝視して「誰?」誰何する。
 一拍置いて、重苦しい夜の闇と静けさを破ったのは、低い笑い声だった。
「こんな時間にどこへ行くんだ?」
 鷹揚とした靴音が近付いてきた。現れたのは、テスカトリポカだった。
「テスカトリポカ……?」強張っていた肩から力が抜けた。
「魑魅魍魎が徘徊する深夜にひとりとは、無防備すぎる。たとえ艦内でもな」
「魑魅魍魎なんて」
 いないでしょうと結ぶと、テスカトリポカの薄い唇が弧を描いた。
「そう思うか?」
 頷けなかった。
 答えられなかった。
 代わりに、剣呑と眉を寄せてテスカトリポカを見据える。公正で、厳格で、それでいて気紛れな神は、意地の悪い笑みを浮かべている。
「食堂に行こうと思ってたの。一緒に行きませんか?」
 話を断ち切るようにして切り出すと、テスカトリポカは「付き合おう」ジーンズのポケットに手を突っ込んだ。
 彼のうしろで消えていた夜間灯が一斉に点いた。真っ暗だった廊下がぼんやりと明るくなる。
 食堂は、すぐそばにあった。入口から白い燈がうっすらと漏れていた。さっきまで、燈はなかったのに。
 思わず苦笑いする。悪夢でも見ているような気分だ。
 唇を真一文字に引き結び、テスカトリポカの隣に立って、長い腕にしがみつくようにして手を回して身体を寄せ、彼を見上げる。
「ねえ、魑魅魍魎って、本当に——」
 言葉は最後まで続かなかった。なにかが動いた気がして、意識が背後に向いたからだ。
 わたしたちの背後には、変哲のないありふれた、けれど、薄気味悪い仄暗闇があるだけだった。
「魑魅魍魎はな、いるんだよ」
 テスカトリポカはわたしの耳元で囁いて、喉の奥で笑った。