砕けぬ愛を抱く

愛する人が死ぬなんて、絶対にあり得ないわ。だって、愛は不滅だから。

――エミリー・ディキンソン

「オウケン、お前に授けたいものがある」

 王命により、騎士団長に任命された議会のあと、兄者は優しい目でオレを見た。

 兄者のうしろには両手に赤い布にくるまれた細長いものを抱えた従者が控えていた。

 従者が抱えていたそれを兄者に渡す。兄者が布を取り払うと、そこには黒革の鞘に収まった一振りの剣があった。剣は、柄も剣帯も黒い。

「オリハルコンの剣だ。オレからの祝いの品だ。冥府一の鍛冶師に打たせた。騎士団を、任せたぞ」

「はい。このオウケンにお任せください」

 騎士団長を任されたことに対する喜びと責任感が言葉の端に熱を込めた。

 ゆっくりと剣を抜く。柄が手に馴染んだ。軽い。刀身は、いつも佩いているロングソードの刃よりも長く、オレの身長に合っている。

「これは素晴らしい剣ですね」

 鍔の中心には掌に収まるほどの小振りな青い宝石が嵌め込まれていた。サファイアかと思ったが、よく見ると、青いダイヤモンドだった。この国ではダイヤモンドは鉱石の中で最もよく採れるが、青いものは希少だ。

「実に美しい剣だ」

 曇りひとつない重厚な銀色の刃が、燭台に灯る火の色を吸って鈍く輝いている。オリハルコンでできた剣をはじめて見た。なんて美しいのだろう。

「兄者、ありがとうございます」

 剣を鞘に戻して一揖する。嬉しくて、胸の中が熱くなった。この剣で、冥府の未来を切り拓いていきたい。

 早速剣を腰に佩いた。兄者は「よく似合っている」と言ってくれた。なんだか、誇らしい気持ちになった。

 数日後に行われる叙任式には、この剣を使うことになった。

 玉座の間は、寂として静まり返っていた。

 控えている重鎮や騎士たちは人形のように動かず、参謀である弟のデスパーに至っては、腰のうしろで組んだ手をほどいては何度も顎を摩ったりと、珍しく落ち着きがない。張り詰めた緊張感は、これから行う叙任式に似つかわしい厳かな空気が漂っている。

 入口の扉が重々しい音を立てて開き、(みな)が一斉にそちらに顔を向けた。

 腰に長剣を佩き、白銀の甲冑に身を包んだ末の弟オウケンが現れた。静寂の中で張っていた緊張の糸が緩む。

 オウケンは真っ直ぐに私を見据え、玉座の前まで堂々と歩いた。この日のために用意させた特別な甲冑と、贈った剣がよく似合っている。

「騎士オウケン、ここに」

 オウケンは長剣を抜くと跪き、切っ先と柄頭にそれぞれ両手を添え、私に捧げた。玉座から腰を上げ、剣を受け取る。鍔に装飾された青いダイヤモンドがそばの燭台に灯る火を吸って煌めいた。

「これより騎士団長叙任式を執り行う」

 握った剣の柄を垂直に胸の前まで下ろして、磨き抜かれた刃越しに、跪いて(こうべ)を垂れたオウケンの項を見据える。

「冥府の王、デスハーの名において、汝を騎士団長に任命する」

 寝かせた刃をオウケンの右肩に乗せ、宣誓を唱えようと浅く息を吸う。

「汝は冥府の民すべてを守護し、敵を切り裂く刃となり、正義のために剣を揮え。如何なる時も、忠実であれ。勇ましくあれ。慎ましくあれ。公正であれ。真理を守り、裏切ることなく、欺くことなく、驕ることなく、堂々と振る舞い、騎士であることを忘れるな」

 右肩を刃で叩き、手首を返して剣を持ち上げる。オウケンの頭上から左肩へ刃を移動させて肩を打ち、再び剣を胸の前に構え、刃の切っ先をオウケンの顔のすぐ横に下ろす。

 一拍置いて、頭を傾けたオウケンが刃の側面に口付けた。これで、オウケンは騎士団長となった。兄として誇らしく思い、王として期待を抱いた。

「顔を上げよ、我が騎士、オウケン」

「はい、我が王」

 オウケンが顔を上げる。眸は希望の光を宿していた。

「我が身は御身のためにあると誓います。この命尽きるまで、民を護る盾となり、敵を討つ剣となり、冥府の騎士の長として、皆の規範たる働きをしてまいります」

 オウケンが立ち上がると、周りから拍手が沸き上がった。

 それからオウケンは騎士たちを導き、数多の戦場で勝利を収めた。

 冥府を揺るがす屍山血河の大戦の末に父を討ち、革命を為してから、オウケンの言う通り、やることが山積みだった。

 早急に餓えていた民に施しをした。弱体化していた軍隊を挽回させた。様々な法令を制定し、民の生活の支えとなる機関や、経済や産業の基底部となる施設を整備した。時に内乱を鎮めるために戦をする必要もあったが、騎士団によって平定され、人も魔族も、新たな王に忠誠を誓った。荒廃していた冥府という国は少しずつ復興を遂げていった。

 しかし、北では、領土を巡って魔族同士の抗争が絶えず続いている。父の代からはじまった戦は、両者譲らず進退を繰り返していて、現在も拮抗した状態だという。

 遠い昔から今に至るまで続いている北での戦は悩みの種だった。放置するわけにもいかない。扱いを先延ばしにするわけにもいかない。この国に真の平和と安寧をもたらすには、戦を終わらせる必要がある。

 今日の軍議は、北の抗争の件に絞られた。

「次の戦は、間違いなく多くの犠牲が出ます。生きて戻れる保証はありません」

 デスパーの言う通り、北は、今や冥府で一番危険な地域だ。百戦錬磨の騎士団であっても、苦戦を強いられるだろう。団長であるオウケンは前線に立つ。生還できるかわからない。

 だが、王が私情を挟むわけにはいかない。

 三日後に、騎士団を北に送ることになった。

 これで何度目の遠征だろうか。

 ――次の戦は、間違いなく多くの犠牲が出ます。生きて戻れる保証はありません。

 円卓で意見したデスパー兄の表情は昏かった。

 数千の魔族がぶつかり合う干戈なのだから、それもそうだろうと、頭の隅で冷静な考えを持つ自分がいた。

 議論の末に、王は剣呑と眉を寄せて遠征の命を下した。出征は三日後だ。

 軍議のあと、鍛錬をするために中庭に向かった。歩きながら、戦場を思い出した。

 全身を巡る血が沸騰したように熱くなる感覚も、敵を斬った時の手応えも、死体が灼ける臭いも、男たちの怒号も悲鳴も、嗅覚を麻痺させるほどの血の臭いも知っている。血に塗れ、泥濘を踏み締め、剣を揮う。王のために。国のために。民のために。大切なものを護るために、私は戦う。絶対に、死ぬわけにはいかない。

 けれどもし、己が討ち死にしたら――。

――死ぬ? 私が?

 底のない、得体の知れないどろどろとしたものが足元から這い上がってくる。歩幅が狭くなって、歩が緩んだ。

 人は死に際に、人生の出来事が次々と浮かんでは消えるというが、私は最後になにを見るのだろう。

 ああ、私はきっと、兄者の背中を見るだろう。兄者は私のすべてだから。

 黒い愛剣の柄頭に置いていた手を滑らせて柄を強く握り、中庭へ急いだ。

 中庭では、部下たちが隊長の指示の元、一対一で手合わせをしていた。

 隊長に遠征が決まったことを告げ、部下たちを招集する。

「三日後に出征する。やりたいことがあれば、それまでにやっておくといい」

 部下たちの勇ましい返事が耳朶を打った。

 この中で、何人が生還するのだろう。

 愛馬の様子を見に厩に向かった。

 私の愛馬は、冥府の深い夜と同じ毛並みを持つ体格のいい雄馬だった。産まれて間もなくして駿馬であることを見出し、軍馬として育てるべく、自らの手で徹底的に調教した。

 甘えん坊だった仔馬は逞しく勇敢に育ち、今や私と共に戦場を縦横無尽に駆けるかけがえのない存在となっている。 

 愛馬の太い首を撫でてやりながら「最近遠乗りに行っていないな」語りかけると、愛馬は長い睫毛の下で哀しげに瞬かせた小さな眸に私を映した。

「たまには西の森に行ってみるか」

 愛馬は答えるように胸元に鼻先を擦り付けた。まだ鞍を着けていないのに、早く主人を背に乗せたいようだった。

 西の森までひとりで駆けた。

 森の中にある巨大な地底湖には、幼いころ、兄弟でよく城を抜け出しては来ていた。こっそり城を出ても、護衛の騎士だけは振り切ることができなかったが、彼は寡黙で、咎めることはせずに見守ってくれたので、私と兄たちは束の間の自由を得た。

 地底湖の畔に立つと、父への恐怖も嫌悪も薄れたが、泣きたくなるほど無力な自分たちの幼さを思い知らされた。水面を睨みつけながら、王を討って絶望と怨嗟に満ちた国を変えようと約束をした。もう遠い昔のことだ。

 のちに前王を討ち滅ぼし、兄者が玉座に就き、この国は変わった。希望が溢れる平和で豊かな国となった。

 あれからずいぶんと時間が流れたが、地底湖の畔には、変わらない風景があった。

「ここは変わらないな」

 愛馬の背から降りて、手綱を牽きながら、懐かしさに目を細めて地底湖を眺めた。凪いだ水面は、今の冥府のように穏やかだ。青々と透き通る水面に輝かしい冥府の未来を見た。

――いずれ必ず、父上を討とう。そのためならオレはなんだってする。どんな手を使ってでも、必ず果たしてみせる。

 ちょうどこの場所で、兄者の、子供ではない、しかし、大人と呼ぶにはまだ早い未熟な背中を見据えて、兄者こそがこの国に真の安寧をもたらすことができるのだと確信した。それを支えるのが自分たち弟なのだと、熱い思いのままに拳を握り締めた。涙を堪えて兄弟三人で未来を誓い、革命を成し遂げ、今がある。

――王の剣となり、民の盾となり、この国を護ってみせる。兄者を護ってみせる。そのためなら、修羅の道を歩んだっていい。偉大なる我らの王。愛する私の兄者……。

 目を閉じると、兄者に対する想いが、規則正しい鼓動を打つ心臓を揺さぶった。この親愛は兄弟愛よりも深く、騎士としての忠義よりも篤い。身を焦がすほどの想いを伝えたことはないが、今兄者を前にしたら、打ち明けてしまいそうだ。

 剣の柄頭に添えた手に力がこもった。そしてふと、鍔の青いダイヤモンドを思い出して瞼を持ち上げて視線を落とした。

 ダイヤモンドは神秘的な輝きを放っている。

 剣は騎士のすべてともいえる。兄者から授かったこの剣は、私の命と同等だ。この剣で勝利を捧げてきた。この剣があったからこそ、戦場で兄者を感じることができた。

「…………!」

 ある考えが浮かんで、弾かれたように愛馬に乗り上げ、城に戻った。

 真の闇が冥府を覆ったころ、寝所のドアが叩かれた。

 訪問者はオウケンだった。

 暖炉の前に椅子を並べて、束の間の穏やかな時間を過ごした。戦の話はしなかった。したくなかった。しばらく会えなくなるのだから、兄と弟として、安息の時を過ごしていたかった。

 二日前に、幼いころによく兄弟で行っていた地底湖に行ったのだと、オウケンは話してくれた。地底湖の畔は、今でも変わらないという。

「懐かしいな。あそこの野苺は美味かったな」

「そうですね。たくさん摘んだのを覚えています」

 くすくすと笑い合って、ふと会話が途切れた。火だけがゆらゆらと揺れて、絨毯に伸びた不揃いな影が傾く。

「明日いよいよ出征しますが、その前に、兄者に受け取ってほしいものがあります」

オウケンはおもむろに掛けていた椅子から腰を上げ、オレの目の前で跪いた。

「なんだ?」

 肘掛けに突いていた頬杖を崩す。暖炉の火が、弟の精悍な顔立ちを赤々と照らしている。オウケンの眸には、激情が燃え盛っていた。

「兄者に、これを受け取ってほしいのです」

 オウケンはそう言って、懐からなにか取り出した。掌にすっぽりと収まるほどの大きさのシンプルな箱だった。オウケンは私に見えるよう、箱を胸の前まで持ち上げてから蓋を外した。中には宝石台が嵌められていて、中央には青いダイヤモンドがあった。

「これは」見覚えのあるものだった。「お前の剣の鍔に装飾されたものだな?」

 ダイヤモンドから視軸を上げると、オウケンと視線が重なった。

「そうです。これをあなたに捧げます」

「オレに?」

 オウケンは顎を引いた。

 地上には、騎士が戦地に赴く前に、命と同等である剣に装飾された宝石を外して恋人や婚約者に渡す風習があることを思い出した。生還できれば結婚し、死別すれば形見となる。騎士が宝石を贈るのは、それほど重い意味がある。

 しかし、それは、愛し合う男女の間で行われるものだ。オレとオウケンは男同士であり、兄弟だ。

「騎士が相手に宝石を贈る意味を知っているのか」

「理解しています」オウケンは眉ひとつ動かさない。「私は、兄者のことを、愛しています」

 浅く吸った息が一刹那止まった。

 剛毅直諒であるオウケンの抱く「愛」が互いに親しんできた兄弟愛ではないことをすぐさま感じ取った。弟が己に向けているのは、兄弟愛とは違った、爛漫と咲き誇る花のように鮮やかで、瑞々しい、眩く、深い愛情だろう。そんな唯一無二の愛情は、己になど向けられてはいけない。オウケンには未来がある。きっとこの先、素晴らしい相手と運命的な出会いをするだろう。

「オウケン」

「はい」

「すまんが、これは受け取れない」

「何故ですか?」

「お前はまだ若い。オレなんかよりもいい伴侶が見付かるだろう。その者と寄り添い、睦み合い、支え合って生きていってほしいんだ。お前には幸せになってほしい。オレは、」

「そんなことを言わないでください!」

 声を遮ったオウケンの感情が弾けた。呆気に取られて、喉の奥で行き場を失った言葉を飲み込む。

「私は『この人なしでは生きられない』と思う人と共にありたいのです」

 オウケンの一握の情熱と揺るぎない思慕がこもった黒々とした双眸が徐々に潤んでいく。

「私が心の底から慕い、そばにいたいと思うのは、兄者だけです。私は、あなたと幸せになりたいのです」

 オウケンが目を細めると、目尻から涙が零れた。涙は火の色を吸って、ゆっくりと頬を伝い落ちていく。オウケンの涙を見たのは子供の時以来だった。オウケンを泣かせてしまったことへの心苦しさに奥歯を噛み締める。

「すまない。泣かないでくれ」指の背で涙を拭う。「お前がこんなにもオレのことを慕ってくれているとは思わなかった。オレは果報者だな」

 ふっと笑ってオウケンの頬に触れると、オウケンは頬を押し付けてきた。それが愛おしくて、泣きそうになる。掌を離して、心地いい体温が沁みた手を握り締める。

 常々、弟の幸せを願ってきた。弟の幸せこそ己の幸せだった。そんな弟が、己と幸福になりたいと本気で言っている。

 オウケンの愛を受け取ってもいいだろうか。兄弟愛以上の親愛を深めることを許されるだろうか。共と並び、未来を見据え、同じ歩幅で残りの人生を歩んでいってもいいだろうか――。

「私が愛しているのは兄者だけです」

 手に負えないほどの熱情を、切望を、人は愛というのだろう。オウケンの純粋な気持ちは心を揺らし、理性によって築かれた躊躇いの砦を崩していった。

「どうか受け取ってください。私は生きて戻れるかわかりません。戻らなかった時は、これを形見にしてほしいのです」

「そんなことを言うな。必ず戻ってこい。戻って、オレと共に生きてくれ」

 胸に込み上げる想いを留めることはできなかった。

「そばにいてくれ。それ以外のことはなにも望まん。オレはお前なしでは生きられない」

「私は、必ずあなたの元に戻ります」

 オウケンは力強く頷いた。

「そして今ここで、あなたに生涯の愛を誓います。これからも変わらず、弟として兄であるあなたを慕います。騎士として王であるあなたを支えます。これからは、伴侶として最愛のあなたのそばにいます」

 オウケンの手の中で、青いダイヤモンドがきらりと光った。弟の手の甲に自身の掌を被せるようにして箱を受け取る。

「ありがとうよ」

 そばで、積み重なった薪が火の中で小さく弾けて、永遠を思わせる甘い雰囲気が漂った。

 オウケンから受け取った青いダイヤモンドは、寝台の横に置いたナイトテーブルの抽斗にしまった。

 オウケンが一万の軍を引き連れて城を出てから、夜な夜な箱を開けて、オウケンのことを思い出しながら眺めた。薄闇の中で、燭台に灯る火に照らされたダイヤモンドは、心を慰めてくれた。

 玉座に座して斥候からの戦況報告を聞いては、遠い戦地にいる弟の身を案じ、不安に駆られることがあったが、オウケンを信じて待った。弟は、初陣から数多の死線を潜り抜けてきた将なのだ。あの夜誓った通り、必ず己の元に戻ってくるだろう。

 出征から半年後に、騎士団は凱陣した。

 争っていた魔族たちは降伏し、無事に北は平定された。騎士団の犠牲はほとんどないという。

「騎士オウケン、唯今帰陣致しました」

 半年前は鈍い輝きを放っていた銀色の甲冑に傷を作ったオウケンと隊長が玉座の間に現れた。

「よく戻った。此度の戦、見事だった」

 王としてふたりを労い、休息を命じた。

 騎士団に豪勢な食事を振る舞うよう料理長に伝えた。食堂や中庭は夜すがら飲めや歌えやの騒ぎで、その日ばかりは、城の中は一晩中明るかった。

 控えめなノックに、浅い眠りの淵から意識が浮上した。

 いつの間にか、暖炉の前で微睡んでしまったようだ。瞬きを繰り返して「入れ」と返すと、ドアが開いた。白いチュニックに黒いブレーを穿いたオウケンが立っていた。

「失礼します」

 一揖して寝所に入り、オウケンは後ろ手にドアを閉めると、柔らかく微笑んだ。

 窓辺の椅子を持ってこさせて、半年前のように、暖炉の前に並んだ。今度は椅子同士の距離が近い。手を伸ばせばオウケンに届く。

 盛る火がちろちろと瞬いて、ふたりをあたため、照らし出した。静けさの中で、なにをするわけもなく過ごす緩やかな時間というのは、どんな宝よりも価値がある。

「夜毎幕舎で兄者のことを想っていました」

 火を見詰めながら、オウケンがゆっくり息を吐いた。

「オレも夜な夜なお前のことを考えていた」

 火を見詰めながら、不安に駆られた夜を思い出した。

「兄者が恋しくて仕方がありませんでした」

「なんだ、甘えたがりのようなことを言う」

 視軸を隣に移すと、「そうですね。今夜は甘えたがりなのかもしれません」肘掛けに置いていた手を握られた。「半年も離れていましたから」弟の手はあたたかい。

 オウケンの熱烈な視線に、口の端が緩む。こういう時、甘い言葉のひとつでも掛けてやれればいいのだろうが、如何せん経験がない。睦み合うというのは難しい。それでも、ただ隣にいるだけで満たされた。

「兄者」オウケンが立ち上がり、あの時のように目の前で跪いた。片手は繋がったままだ。「お慕いしています」

 手の甲に口付けが落ちた。慈しみに満ちた口付けだった。寄り掛かっていた背凭れから身体を起こし、弟の頬を両手で包み込んで、お返しに、額にキスをしてやる。

「よく戻った。おかえり、オウケン」

「……兄者っ……」

 両膝で立ち、身を乗り出したオウケンから抱擁を受ける。腰に手が回り、しっかりと抱き締められた。小さな嗚咽が耳朶に届いた。震える広い背中を撫でて、抱き合った。互いになにも言わなかった。否、言葉は必要なかった。重なった鼓動が、体温が、息遣いが溶け合ってひとつになる。

 これから先は、オウケンと寄り添って、睦み合い、支え合って生きていく。ふたりの間にある砕けぬ愛を抱き、生きていくのだ。

 青い透徹とした愛情が、冥府の夜の中で輝いている。