砂糖とミルクが多めに入った紅茶のような甘い真珠色の深い眠りに沈んでいた意識が、スプーンで掻き混ぜられて、ふわりと浮上した。
薄らぼんやりと明るい視界に、眠気でぼやけた白い天井が映る。視線をベッドの横にやると、ナイトテーブルの上で淡い緋色の燈を灯している燭台が、自分の寝所に置いてあるものと違うことに気が付いた。
そうだ、ここは兄者の寝所だ。
丸一日父上に無視されて、悲しくて兄者の部屋に来たのを思い出した途端、意識が覚醒した。一緒に寝ようとして……本を読んでもらっているうちに眠ってしまったらしい。
首を傾けると、隣で背中を向けて兄者が眠っていた。幅広の肩が小さく上下している。
薄闇に慣れた目を瞬かせて身体を起こし、シーツに両手を突いて兄者の顔を覗き込もうとしたが、よく見えない。
寝所は耳に音が篭るほど静かだった。兄者の穏やかな寝息だけが聞こえる。ひとりだけ目が覚めてしまったことが寂しくて、怖くて、兄者に大丈夫だと頭を撫でてもらいたくなる。
「兄者、ねえ、兄者」
肩を掴んで揺さぶってみると、兄者はすぐに起きた。
「デスパー、厠か?」
眠たげな声に安心した。厠に行きたいわけではないけれど「はい」と返した。退屈なシーツとブランケットの海を飛び出してしまいたかったのだ。
兄者はゆっくりと起き上がり、指の背で目を擦ったあと、履物を引っ掛け、ナイトテーブルにあった懐中燭台を手にした。
兄者の隣に立って手を握ると、兄者の大きな手は僕の手を包み込み、しっかりと握り返してくれた。
ふたりで寝所を出て、厠に向けて歩き続けた。
夜の城内は至る所で燈が灯っているが、どこか冷たくて、暗くて、廊下の突き当たりからおばけが飛び出してきそうで怖かった。歩き慣れている通路も、見慣れている石壁ですら、いつもと違って見える。
居館から別棟を繋ぐ中庭を臨む通路の途中で足を止めると、歩幅に合わせて歩いてくれていた兄者も立ち止まった。
「兄者、中庭に、行きたいです」
「厠はいいのか?」
「はい。ほんとうは、兄者と歩きたかったんです」
「こんな時間に?」
「僕は、悪い子ですか?」
「そんなことはない。……そうだなあ」
兄者は少し悩んだように逸らした視線で虚空を見つめていたが、にっと笑って「行くか」と僕の手を引いて歩き出した。逸る気持ちを抑えても、歩幅が広くなった。
中庭に出ると、夜の幕の内側で息を潜めていた生い茂った木々と土の香りが鼻先を掠めた。鈴の音のような虫の鳴き声が耳朶を擽る。ひんやりとした夜気が気持ちいい。夜露が光る芝生は、蝋燭の先に灯る火の色を吸って黒黒と照っている。
「夜の中庭って、こんなに美しかったんですね」
兄者は立てた示指を口元に寄せて「母上には内緒だぞ」と囁いた。
「はい、内緒にします」
くすくすと笑い合っていると、頭を撫でられた。僕は兄者のことが大好きだ。
地上と違って、ここでは輝く星々は見えない。僕は月の明るさを知ない。それでも、今この瞬間、兄者とのふたりだけの世界は、煌びやかなものだった。
忘れられない思い出というものがある。
私にとって、それはいつまでも大切にしたい記憶のことだ。
残念なことに、悲しかった出来事や苦い思い出、嘆き苦しんだ時の記憶や経験した挫折というものは、悪い悪夢のようにいつまでも眼球の裏側にこびりついて美しい思い出を穢すが、唯一、それらに侵食されずに鮮明に覚えている記憶がある。
幼いころ、一度だけ兄者と夜更けに中庭に出た時の記憶だ。
新鮮な若草や湿った土の匂い、頬を撫でる風の音、それから、兄者の慈しみに満ちた優しい表情と、頭を撫でてくれた掌の大きさを今でも覚えている。兄者の手は頼もしかった。それは今でも変わらないが、物心がついたばかりの私にとって、兄者は憧れであり――すべてだった。
——母上には内緒だぞ。
もちろん、あの夜、あの場所で兄者と交わした密約を母に漏らしたことはない。あのころは、兄者と秘密を共有するのが嬉しくて、特別な感じがしたのだ。
たった一夜の思い出は、今でも私の瞼に宿り、燦然と輝いている。