プトレマイオスの部屋は静かだった。
ソファに並んでのんびりと読書をして過ごす、いつもと変わらない、立香が大好きな夜だ。いつもと違うのは、頭の中が或る考えでいっぱいなことだった。
プトレマイオスには、彼女がなにを考えているのかわかっていた。古い書のページに綴られた文字を目で追っている今も、立香は考えている。悩んでいる。
「おまえに負担をかけるつもりはなかったのだが」
読みかけであることにも構わず、プトレマイオスは書をナイトテーブルに置いた。
立香はプトレマイオスへ顔を向けて「わたしがどうして悩んでるか、わかっちゃいました?」曖昧に笑った。
「わかるとも」掛けていた老眼鏡を外し、書の隣に置く。「贈り物の礼に、あの鍵と司南を渡したのは吾だからな」
立香も抱えていた書をナイトテーブルに載せた。背表紙の文字は掠れている。
「あなたに言われるまで、この旅が終わったあとのことなんて考えたことなかったんです……ううん、考えないようにしてた」
短い溜息をつくと、立香は語を継いだ。
「この旅が終わったらなにをしようかずっと考えてるんです。でも、思いつかなくて……やりたいことはたくさんあるはずなのに、それを実行している自分の姿を想像できないっていうか……」
「想像する必要も、深く考える必要もない。まずはやりたいと思ったことをありのまま書いてみたらどうだ。それだけで立派なリストになる」
「…………! それはいい考えかも。やってみます」
立香は顔を綻ばせ、プトレマイオスの身体に寄り掛かった。ここにいるのは、汎人類史の命運を一身に背負う人類最後のマスターではなく、己の人生に悩むただひとりの少女だった。
プトレマイオスは、そんな少女の肩を優しく抱いた。
静寂が戻ってきた。互いになにも言わなかった。プトレマイオスはただ立香を抱き締めていた。
「本当はね、怖いの」
長い沈黙のあと、立香は言った。
「すべてが終わったら、そのままわたしも終わってしまいそうな気がして」
「言っただろう。灼熱の時間が過ぎたあとも、人生は続くと。おまえはまだ若い。可能性は無限とある。おまえはおまえの未来を征け。気が向いた時に――そうだな……遠くで輝く星を追いたいと思った時にでも――あれを使えばいい」
柔らかい前髪に口付けを落とすと、立香はプトレマイオスを見上げた。琥珀色の双眸には生き生きとした生命力が漲り、強い意志がこもっている。プトレマイオスは、彼女の澄んだ眸が好きだった。
「おまえの傍にはいてやれないが、おまえの人生が輝けるものであることを祈っている」
ランプの仄燈に照らし出された白い頬に触れる。かさついた手に、愛おしい熱が伝わってくる。
旅が終われば、他のサーヴァントたちと同じく、プトレマイオスは座に還る。藤丸立香という輝きに触れることができなくなるだけでなく、彼女と歩んできた旅のすべてを忘れてしまう。それは召喚された英霊のさだめだが、彼女との記憶を手放すのが惜しくないといえば嘘になる。これ以上の愛別離苦があるだろうか……
「プトレマイオス」
たおやかな指が白髯に触れた。見詰め合っていると、手は首のうしろに回った。引き寄せられ、額を突き合わせ、夜の闇が入り込めないほどの距離で、美しい眸が瞬いた。
「わたしに未来を贈ってくれて……ありがとう」
柔らかな声音がプトレマイオスの耳朶をくすぐった。唇が触れ合って、互いの熱が移る。
「ずっとずっと、大好きだよ」
ともに歩いては行けない未来は、崇高で、鮮やかで、眩いほどに燦然と輝いている。