王と蜜蜂

 メイド長の掃除はいつも完璧だが、今日は学室の出窓のカウンターに、一匹の蜂の死骸があった。

 潔癖なメイド長が見逃すわけがないから、彼女が去ったあとに蜂はここで力尽きたのだろう。

 黄色と黒の体色を持つ小振りな蜂の薄い翅は、オレの小指の爪よりも小さかった。

「おや、蜜蜂ですな。可哀想に」

 背伸びをしてカウンターに寄り掛かり、横に転がったまま動かない蜂を眺めていると、近付いてきていた靴音が横で止まった。隣を一瞥すると、オレよりもずっと背の高い相談役の白い眸と視線が重なった。

 蜜蜂。

 この昆虫についてオレはなにも知らないが、博識なこの男なら、多くのことを知っているに違いない――元々相談役だった学匠が老いと病気を理由に一月前に引退し、代わりに新しく相談役となった彼は長寿の異種族で、まだ若い方だが、軍学や兵法に明るく、数多の戦場で司令塔となって采配を下し、冥府騎士団を勝利に導いてきた軍略家だった。

 相談役に抜擢されたとだけあって高い教養と鋭い観察眼を持ち、あらゆる知識に富んでいる。そして彼は謙虚で慎ましやかな性格で、まだ戦場を知らぬ幼い無知なオレにも優しい。

 彼の話は興味深いものが多く、好奇心をくすぐられる。書物を読むよりも、最近は相談役と話している方が楽しい。

「蜜蜂って、刺すの?」

 産毛のような細かな体毛に覆われた丸い蜜蜂の腹を見て、なんとなく浮かんだ疑問を口にすると、彼は「いいえ」と穏やかな口調で言った。

「一匹であれば、酷いことをしなければ刺しません。蜜蜂というのは、花の蜜を集めてくれるのですよ。集めた蜜は、デスハー様がお好きなパンケーキにかける蜂蜜になるのです」

「この小さな蜂が、あんなにたくさんの蜂蜜を?」

「そうです。何百匹もの働き蜂が、巣に花の蜜を集めてくるのです。働き蜂というのは、女王蜂のために働く、いわば兵士です」

「へえ、蜜蜂って、小さいのにすごいんだな」

 だが、この蜜蜂は巣に帰れなかったのだ。可哀想に。

「面白いことに、蜜蜂と人類は深い関係にあります。蜜蜂が死に絶えると、国が滅亡するといわれています」

 視線を蜜蜂の亡骸から外して相談役を見上げる。彼の長く尖った耳は、オレが息を呑む微かな呼吸音を拾っただろう。

「繊細な生き物なのですよ、彼らは。たかだか虫、とお思いでしょうが、蜜蜂というのは国の豊かさや繁栄の象徴でもあるのです。大切にし、護らなくてはいけません」

「たしかに、蜂蜜が取れなくなるのは、困るな」

 半分真面目に、半分冗談で言ってみる。焼きたてのパンケーキには、蜂蜜が必要不可欠なのだ。

「はは、そうですな。私も紅茶には蜂蜜を入れて飲むので、彼らがいないと困ります」

 彼は小さく肩を揺らした。それから鷹揚と腰のうしろで手を組んだ。

「デスハー様には、いずれこの国を〝蜂蜜がたくさん取れる国〟にしていただきたいのです。お強く、賢く、お優しい王になっていただきたい。私は、そう思っております」

「……なれるかな。そんな王に」

「なれますとも。ただし、そのためには学ぶことがたくさんあります」

 彼は示指を立てて、掴み所のない様子で笑った。つられて頬が緩む。

「この蜜蜂を埋めてやってもいいだろうか」

「ええ。では、中庭に参りましょうか」

 蜜蜂の翅を摘み上げて死骸を掌に乗せて、彼と一緒に学室を出た。

 この小さき兵の帰還を待つ同胞たちが大勢いたに違いない。そう思うと、酷く切なくなった。

 一匹の蜜蜂の死を、忘れないでいてやろう。