獅子の爪痕

 東の最果ての森に棲まうマンティコアは、人語を解すという。

 人の頭を持ち、獅子の身体を有するその生物は、人を好んで食す上に、理性などない。人の言葉も喋らない。

 だが、事実は小説よりも奇なりとはよく言ったもので、子供がマンティコアに助けられたという話がある。また、はるか昔に起こった人と魔族の抗争には、人語を話す理知的なマンティコアが人間側に加勢したとの話まである。

 それが東のマンティコアだった。

 友好的な生物であるならば一度目にしたい。話がしたい――子供のころ、東のマンティコアについて綴られた書物を広げては、強く願ったものだ。

 無垢な子供であったころから何十年も経ったが、東のマンティコアは、まだ生きているのだろうか?

 父の命令で、冥府の地図を作成するために、陸地測量部の一員として、未開の地に派遣されることになった。

 弟と冥府騎士団員たちと共に城を出て、ひたすらに東に向かって行軍した。

「東の果てには、人語を解すマンティコアがいるとの噂がありますね」

「おや、随分古い話を知っていますね」

「兄者が教えてくれました。人を食う生き物だから、遭遇しても油断するなと」

「噂がほんとうなら、東のマンティコアは人を食べませんよ」

「わかりませんよ」オウケンは太い眉を寄せた。「襲ってくるようであれば、被害が出る前に討伐しなくては」

 マンティコアに遭遇するならば、弟がいない時の方がいいなと思った。

 東のマンティコアが棲まうという森に着いたのは、城を出て一月後の昼下がりのことだった。

 幕舎を設け、測量のために辺りを歩くことにした。

 弟たちと離れ、静かな森の中を進む。少し歩いたところで岩場の多い拓けた場所に出た。

 不意に、頭上の岩上になにかの気配を感じた。本能的に全身が強張った。ゆっくりと顔を上げると、そこには四足歩行の巨大な生物の翳るシルエットがあった。

 目を細めて凝視し、言葉を失った。

 その生物の頭は人間の老いた男のもので、身体は金色の被毛に覆われていて、長く節くれだった蠍の尾は高々と持ち上がり、ゆるやかな曲線を描いていた。得体の知れない生物は音もなく巨躯を伏せ、「珍しい客人がきたものだな」嗄れた声を発した。

 胸の内側で心臓が早鐘を打つ。額に汗が噴き出た。この生物はマンティコアだ。

「東のマンティコア……まさかほんとうに、存在するとは」

「いかにも。人の子からはそう呼ばれている」

 平らな岩に横たわり、東のマンティコアはリラックスしているようだった。威厳溢れる、神秘的な姿から目を離すことができない。

「私を取って食いますか」

「人の肉は好かん」

 東のマンティコアは穏やかな表情で言った。

「このような僻地に兵を引き連れてくるとは一体何用か。サトゥンはまた戦をはじめるのか?」

「いえ、違います。ここには、地図を作るために来たのです」

「ほう、それは面白い。そなたは、もしやサトゥンの息子か? サトゥンの息子は雷を操ると聞いたが、真の話か?」

 東のマンティコアは首を伸ばして、頭を傾けた。金色の眸の奥には好奇心が渦巻いている。

「それは私の兄のことですね。私にはそのような力はありません」「では、そなたは二番目の息子か? 二番目の息子は博学の士と聞くぞ」

「ええ」不思議なことに、気持ちは落ち着いていた。幼い頃から会いたいと思った存在は、想像以上に成熟している。「私が二番目の息子です」

「聡い顔をしている」

 東のマンティコアは目を細めた。目尻に深い皺が寄る。

「人の子よ。魔王サトゥンの子よ。さらに見解を広めるとよい。知は力なり。賢いそなたはいずれ人を導く存在となるだろう」

「……それは……予言ですか」

「果て、どうかな」

 一拍置いて、東のマンティコアは悠々と長い尾を振った。

「サトゥンの二番目の息子よ」

 ぬるい風が吹き抜けた。

「我は民草の怨嗟に満ちた混沌とした冥府は好かぬ。サトゥンの息子よ。息子たちよ。どうか、この冥府をよき方へ変えてはくれぬか」 雷に打たれたような衝撃を受けた。人ならざるものは、冥府の行く末を案じている。

「サトゥンの子よ。ゆめゆめ忘れるな。冥府の民はそなたらと共にある。勇気を持て。奮起せよ」

「兄さん? そこにいるの?」

 弟の声が背後からした。振り返ると、茂みをかき分けてオウケンが現れた。

「オウケン、見てください、東のマンティコアです」

 勢いよく前を向き直るが、そこにはなにもいなかった。

「兄さん? 東のマンティコアって……?」

「い、今たしかにいたんです、今まで話していたんですよ」

 慌てて辺りを見回すが、気配はなかった。

 その後も測量に勤しんだが、東のマンティコアが姿を見せることは二度となかった。

 役目を終えて城に戻った今となっては、あれは夢だったのか、はたまた幻だったのかと考える時があるが、東のマンティコアの切望は、心に爪痕を残していた。

 兄と弟と共に父に反旗を翻すと決起した時に真っ先に思い出したのは、東のマンティコアの物憂げな表情と、金色に照った毛並みだった。

「……勇気を持て」

 戦の最中、幕舎の中で地図を広げ、兵棋を並べながら彼の言葉を復唱すると、胸に熱いものが込み上げた。

 冥府の民のためにも、この戦いには、なんとしても勝たなくてはならない。