煙の味

 自室に併設されたシャワーブースから出ると、部屋にはいつの間にかテスカトリポカがいた。

 彼はベッドに腰掛けて煙草をくゆらせていた。天井に向けて揺らぐ一筋の煙は、独特なにおいを部屋に充満させている。

 彼は現代の嗜好品文化にも関心を寄せており、特に煙草はお気に入りだった。

「煙草、好きですよね」

 濡れた髪をタオルで拭きながら、ベッドの横のナイトテーブルに置かれた金属製のシンプルな丸い灰皿を見詰めて言う。テスカトリポカは示指と中指に挟んだ煙草を唇から離して煙を吐き出した。

「オレたちの国にもあったが、現代(いま)の方が格段に美味い」

 煙草は、かつては神事祭祀に使われるくらい神聖なものだったという話を思い出した。神への供物だった煙草はのちに嗜好品になり、今や世界中に愛煙家がいる――とはいえ、世界は白紙化してしまっているから「いた」といった方が正しいのかもしれないが、細かいことはいいだろう――たしか、アステカのモクテスマ王が煙草を持っている絵文書も現存しているはずだ。以前、写真で見たことがある。

 煙のにおいを鼻先に感じながら、テスカトリポカの隣に腰を下ろす。眠い。明日も早いから、髪を乾かしたらもう寝た方がいい。テスカトリポカは最近わたしの部屋で寛ぐことが多いが、そろそろ出て行ってもらわなくてはならない。

「喫ってみるか?」

 視線を横にずらすと、差し出された煙草の先で、小さな火が瞬いていた。じりじりと燃える火口の色がやけに鮮やかに見えた。

「ううん」しっかりと首を横に振る。「わたしは未成年だから」

 テスカトリポカはなにも言わない代わりに、目を細め、納得したように何度か頷いて、それから、灰皿の縁に煙草を置いた。

「立香」

 名前を呼ばれ、彼の長い指に顎を掴まれた。顔が僅かに持ち上がる。驚いて「えっ」と声を漏らした時には、テスカトリポカの影が肉薄していた。

 柔らかく苦いものが唇に触れる。不意打ちのキスは一瞬だった。様子を伺うような、そんなキスだった。瞬きを忘れてテスカトリポカの冷たいほどに整った白い顔を見詰める。

「厭か?」

 テスカトリポカの問い掛けを理解するのに時間が掛かった。礼儀と規範を重んじる神は、こんな時でもわたしの意思を確認してくれる。

「い、厭じゃ、ない、です……」

 言い終わって唇を引き結び、瞼を下ろす。緊張の糸で雁字搦めになって強張った利き手を乳房の間に埋めて強く握る。鼓動が速い。身体が火照る。

 唇が重なり、痺れるような苦味を感じた。下唇を吸われ、つつかれ、隙間から押し込まれたテスカトリポカの長い舌が歯列をこじ開け、口腔を犯していく。

「ん、っ、ぅ……」

 吐息が乱れ、頭の内側で形を成さない官能が爆発してしまいそうだった。煙草の煙に甘ったるい雰囲気が混ざり、部屋を満たしていった。

 ちう、っとリップ音が間で弾んで、テスカトリポカが忍び笑いを零した。

「な? 美味いだろ?」

 吐息で紡がれた言葉の端には、一握の熱情があった。

「苦いです」ほうっと、身体にこもった熱を吐き出す。「というか今の、その、ファーストキス……だったんですけど……」

 はじめてのキスは、想像していたような甘酸っぱいものではなく、ただただ苦かった。それでも、胸の中には生き生きとした喜びがあった。

「今のがファーストキス? おまえ、意外とお堅いんだな」テスカトリポカの薄い唇が緩やかな弧を描いた。「なら次は喫ってない時にしてやるよ。期待しとけ」

 灰皿の縁にのる燃える紙軸の先から吸殻が落ちた。

 わたしの胸に灯った火が赤々と明滅する。煙の味が口に残っている。