楽園は遠く

 楽園というものは、苦悩や苦痛が一切ない、幸福だけを感じることができる煌びやかな賑々しい場所だと思っていたが、わたしが唯一足を踏み入れたことのある楽園は、イメージとは違った。 
 耳の奥に音がこもるほど寂として静まり返った辺りには濃霧が立ち込めていて、なにも見えなかった。
 それでも、不思議なことに心には平穏があり、心身ともに満たされているという感覚があった。 
 霧の中を歩いている間も、焚火を見付けた時も、デイビットと命をかけた戦いを繰り広げたあとも、眠りに落ちる瞬間のような夢心地が身体を包み込んでいた。
 わたしはまだ十数年しか生きていないけれど、未だかつて、あれほどの得も言われぬ充足感を味わったことはなかった。
 楽園——テスカトリポカの領域は、戦いに敗れた戦士を迎え入れる場所であるという。最期まで戦ったのなら、戦場で燃え尽きた魂は救われるべきなのだと彼は言った。
「オマエの魂は傷だらけだ」
 テスカトリポカはそう言って涼やかな碧眼をわたしに向けた。
「いずれ敗れた時はミクトランパに招いてやる。傷付いた魂には安息が必要だからな」
 心臓を見透かすのと同じく、テスカトリポカには魂が見えているらしい。肉体だけでなく魂も傷付くというのなら、わたしの魂はとっくのとうにズタズタだろう。
 曖昧に笑って、戦いの神を真正面から見据える。
「わたしはまだ戦えます。勝って、生き残ります」
 テスカトリポカは目を細めてから喉の奥で低く笑った。
「面白い。常勝する不敗の戦士の姿を見せてくれ」
 双眸には一握の好奇があった。
「オマエがどんな最期を迎えるのか楽しみだよ」
 顔を顰めて目を伏せたのは、応急処置を終えたばかりの包帯の巻かれた手を強く握ったせいで爪が傷口に食い込んだからではない。押し寄せてきた敵の大群を思い出したからだ。
 特異点にレイシフトしたばかりで、味方のサーヴァントは二騎しかおらず、圧倒的に不利だった。あのまま戦い続けていたら魔力も尽きて全滅していただろう。体勢を立て直すために一度身を引いたが、英断だったと思う。テスカトリポカが納得しているかどうかはわからないが。
「撤退したこと、怒ってますか?」おそるおそる彼を上目に見詰めて問う。
 テスカトリポカは眉間にシワを刻んだ。「そうだな。戦場で敵に背中を見せるなんてことはありえんことだが——」サングラスのレンズの奥で眸が鋭く光る。「勇敢であることと蛮勇は違う。オマエは判断を間違えていない。それに、この傷ときた」
 彼の大きな手がわたしの片手を掬い取った。さっき手を握り締めたことで傷口が開いたらしい。今さら疼痛と熱が掌全体に広がり、包帯にじわじわと血が滲んでいった。
「まずは傷を癒せ。それから手立てを考えればいい。オマエはこんなところでくたばるようなタマじゃないだろう?」
 俯いた。すぐに返事ができないでいると、手が離れた。
 四肢に巻き付いている包帯の下で負ったばかりの傷が疼いた。ひとまず掌から溢れる血を止めようと肌を強く圧迫すると、鉄錆のようなにおいが鼻先を掠めた。早く凝固してほしかった。血のにおいは嫌いだ。死を連想させるから。
 項に死の息吹を感じて、肺腑にこもった体温を大きく吐き出し、大丈夫だと自分に言い聞かせる。瑞々しい生命と勝利への渇望が鼓動を速めた。
「わたしは、敗けません。楽園には……いかない」
 顔を上げると目が合った。テスカトリポカの薄い唇の端が緩やかに持ち上がる。
 一歩踏み出す度に、彼の楽園は遠くなる。霧の濃さを思い出せなくなる。静寂の中で揺れる焚火の暖かさを忘れていく。けれど、それでいい。わたしにはまだやるべきことがある。満たされるべきではない。わたしにはまだ平穏も安息も必要ない。
「なに、楽園は遠いさ」
 テスカトリポカがゆっくりと横を向く。彼の視線の先を追って視軸をずらしてみたが、辺りには、死のように冷たい、茫洋とした夜の闇だけがあった。