――しくじった。しくじっちまった。
今さら何度後悔してももう遅い。オレは敵軍に捕らえられた。
横からふたりの騎士に首根っこを掴み取られ、抵抗もなすすべなく、敵の陣営を引き摺られるようにして歩かされ、四方八方から飛んでくる冷ややかな視線に全身を貫かれている。
オレの命はもうすぐ尽きるかもしれない。敵軍の総大将である冥府騎士団団長のオウケンは、規律に厳しく、敵には容赦がないと聞く。ましてやオレは密偵だ。密偵というのは卑しい者として扱われているから、捕虜としての価値は低い。
「オウケン様、敵軍の密偵を捕らえました」
「ほら、早く進め」
一際大きな幕舎に辿り着き、背中を突き飛ばされ、前のめりになって転んだ。
両手を突いて起き上がろうとしたが、冷たい殺気のこもった視線と、息ができなくなるような圧を感じて動けなくなる。汗がどっと噴き出た。震える膝をなんとか奮い立たせて立ち上がる。
四角いテーブルを挟んだ向かいに、白銀の甲冑を着込んだ背の高い体格のいい精悍な顔立ちの男と、その男よりも背の高い大柄な騎士がいた。オウケンと、その右腕の騎士だろう。
「我が軍に潜り込んだネズミか。なにを探っていた」
オウケンは太い眉を寄せ、眉間にシワを刻んでオレを睨んだ。視線には殺意がこもっている。押し寄せてくる威圧感に身が竦んだ。「吐いた方が身のためだぞ」
オウケンの隣にいる騎士からも殺気を感じる。この騎士はとにかくデカい。オウケンよりも上背がある分、押し潰すような圧がある。「へ、兵の数……それから……オ……あなたのことを……」
喉の奥から絞り出した声は、情けないくらい小さく、震えていた。「他に仲間は?」
「いない、オレだけだ。たのむっ、助けてくれ!」
地べたに這いつくばって懇願した。汗の浮いた額に土がついたが、構わなかった。
「団長、いかがいたしますか」
「我が軍の情報を持った密偵をみすみす逃すわけにはいかない」
甲冑が擦れる無機な音がオウケンの低い声に混ざる。オレの命は、オウケンの判断に掛かっている。
「処刑する」
肺腑にこもっていた空気がすべて出た。
泣く子も黙る冥府の剣王。戦場の鬼神。不敗の将。冥府の王デスハーの側近で、デスハーの実弟。勇猛果敢な冥府騎士団団長オウケン。どこの国も、この男を恐れている。
オウケンの隣にいた騎士に首根っこを掴まれて、幕舎から引き摺り出された。悲鳴が出た。
「待て、待ってくれ、取引しよう、うちの軍の情報を教える! だから命だけは助けてくれっ!」
「そんなものはいらない」
オウケンはオレの提案を即座に却下した。
「我が軍には優秀な諜報員がいる。お前と違ってな」
デカい騎士には鼻であしらわれた。
幕舎の裏手にあった切り株の前で放り出され、横から二人の騎士に背中を押さえ付けられた。動くのは切り株からはみ出した首だけだった。失禁して、股間が生あたたかくなった。
「故郷に妻と子供がいるんだっ! 助けてくれ!」
もちろん嘘だったが、助かるのならなんだってする。
首を巡らせると、オウケンが腰に佩いていた剣を抜いていた。オレを見下ろすオウケンの目は氷のように冷たく、奈落のように昏い。「オレにも護るべきものがある」
オウケンの背後に、冥府の王の姿を見た。オレとオウケンとでは、当たり前だが、背負っているものが違う。
「最期の言葉があれば聞いてやる」
顎の先から汗が滴り落ちる。目を見開いたまま、オウケンから視線を逸らすことができないでいた。
オレはオウケンと違って護るべきものなんてない。
オレは、ただの密偵だ。言い残したいこともない。
ただの密偵が、静かに死ぬだけ。それだけだ。