太陽に触れる

 ネバダ州とカルフォルニア州の境に座すネバダ山脈には、いくつか湖がある。
 中でも、今向かっているタホ湖はアメリカ合衆国の中で二番目に大きくて深い湖なのだと、ガタついた山道を走る車の中で父は教えてくれた。
 父の言う通り、とても大きな湖だった。
 広大な自然に囲まれた湖上にボートを浮かべて釣り糸を垂らした。魚はちっとも釣れなかったが、飽きることはなかった。群れを成す水鳥が優雅に水面を行き交うのを眺めたり、ボートのそばを泳ぐ魚影を目で追った。街の喧騒を忘れるほどの静けさも、澄んだ山の空気も、すべてが新鮮だった。心が凪いだ。
 ボートに揺られながら、ゆっくりと流れる時間を楽しんだ。父と過ごせるのが嬉しかった。
――ここからカルフォルニア州に行けるんだぞ。あちらから見る日の出はきれいなんだ。でも、夕陽はネバダ州から見た方が美しい。ほら、見てごらん。もうすぐ陽が落ちる。
 父はそう言って西に顔を向けた。夕陽に照らされた横顔は、翳っていてよく見えない。
 父に倣って西の空を見る。雲ひとつない青一色だった空には、いつの間にか昼と夜の境目ができていた。水面に映った濃い緋色と淡い紫色のグラデーションが幻想的だった。太陽は聳え立つ山壁の間に少しずつ沈んでいっている。
 夕陽の眩しさに顰めた顔の前に手を翳す。指の間から見える太陽の輪郭は朧げで、儚くて、美しかった。太陽に触れてみたくて手を伸ばすが、届かない。
――きれいだろう、デイビット。 
 父が笑って、陽が落ちた。 

「デイビット」
 穏やかな声に名前を呼ばれ、瞼が持ち上がる。
 どれくらい眠っていただろう。瞬きを数回すると、ぼやけた視界はクリアになった。
「起きた?」
 頭上から声がして、身じろぎして頭を傾ける。こちらを覗き込む彼女の顔が、天井から差す白い燈に翳っている。
「すまない、どれくらい眠っていた?」
「三十分くらいかな。よく寝てたよ。起こしちゃってごめんね。そろそろ食事の時間だから、食堂に行こう」
 頭の下にある柔らかいものが枕ではなく彼女の太腿だと気付いて、眠る前の記憶が戻ってきた。彼女に言われるがまま、膝枕でほんの少しだけ仮眠を取ることにしたのだ。
「夢を見た」のろのろと起き上がりながら呟いて、彼女の隣に座り、前髪を掻き上げる。「子供の頃に見た景色だった」
「どんな景色?」
「あれは――」
 ふっと彼女を見やる。彼女は微笑んで、言葉の続きを待っている。燃えるような艶やかな赤毛に触れたくなった。
「君の髪の色は、故郷で見た景色を思い出させる」
「わたしの髪の色?」
「ああ。リノのタホ湖から見る夕陽は、君の髪の色のように美しいんだ」
 あの頃太陽に向けてそうしたように手を伸ばした。彼女の髪の先に触れると、充足感が胸を満たした。
「きれいだ、本当に」 
 彼女の顔が赤くなって、黄金の散った眸が右へ左へと動く。「一応、髪の手入れはしてるからね」小さな声が耳朶を打った。
「君が、きれいなんだ」
 摘んでいた髪の先から手を離し、頬に触れる。紅潮した頬は温かく、柔らかい。
 あの頃に見た景色は何万光年進んでも決して見ることはできないが、沈むことのない太陽はここにある。
 オレは今、太陽に触れている。