境界線

 その日の未明、城の中庭で美しい冥府の夜明けを見た。

 岩壁の間から差す朝日が、仄暗い地底に降りる縹渺とした夜のとばりと混ざり合い、屈折し、蒼い光となって中庭を照らし出していた。まるで星空が落ちてきたような光景に胸が躍った。天が騎士団長叙任式を祝福してくれているようだとさえ思えた。

 甲冑を着込んで愛剣を佩き、叙任式の行われる玉座の間までゆっくりとした足取りで歩いた。

 入口で左右の扉が重々しい音を立てて開く。長く続く赤い絨毯の先で、玉座に座す長兄、デスハーの姿があった。そばには次兄、デスパーが控えていた。

 厳かな雰囲気の中、辺りには緊張感が張り詰めていたが、鎧の留め具が擦れる無機な音を弾ませて、玉座まで続く絨毯を挟むようにして並んだ冥府騎士団員たちの間を通った。

 玉座の前で足を止め、佩いていた剣をゆっくりと抜いた。抜身の剣を王に預け、その場で跪いて目を閉じる。心は落ち着いていた。

「我は汝を騎士団長に任命する」

 目前に立つ王は、叙任の宣言を唱えはじめた。

「汝は敵を切り裂く王の剣であり、冥府の民を護る盾である。驕ることなく、欺くことなく、如何なる時も慎ましくあれ。誠実であれ。勇ましくあれ」

 右肩に寝かせた刃が乗せられ、すぐに離れた。

「さあ、顔を上げよ、我が騎士」

「はい、我が王」 

 跪いたまま顔だけを上げて偉大なる王を見据える。上と下で見詰めあう。この瞬間、世界には兄と己しかいないのではないかという錯覚を覚える。

 向けられた剣の切っ先が顔の横で止められている。顔を傾けると、磨き上げられた銀の刃には、これから冥府騎士団団長になる男の顔が映っていた。

 おもむろに刃に口付けた。これで、己は正真正銘、冥府の騎士の長だ。

「我が身は御身のために」

 強い決意を紡ぐ。

 これからは、兄のために尽くすのだ。

 神である父の血を色濃く引いた長兄は、背が高く、大柄で体躯逞しい。雷を自在に操る超人的な力を持っていても、それをひけらかすことは決してしなかった。文武兼備であり、努力を厭わず、なにごとにも勤勉である兄を尊敬している。

 兄の背中を子供のころからずっと追っていたが、兄のようになりたいという強い憧れは、兄を王として戴く前から、支えたい、尽くしたいという気持ちに変わった。

 兄に対する熱情が揺るぎない忠誠心や煌びやかな憧憬であることは自覚しているが、それ以外にも芽生えてしまった感情がある。それは燃え盛る焔の如く胸の内側を熱くさせていた。

「兄者」

 名を呼ぶだけでは満たされるわけもない。己はどうしようもないくらい、兄に焦がれている。

 兄のそばにいたい。そばにいてほしい。名を呼んでほしい。昔のように、あの大きな手で頭を撫でてほしい。触れてほしい――いい歳をして、そんな甘えたがりの子供のような願望ばかりが湧いてしまう。

 胸の奥深くに根を下ろした繊細な感情に名を付けることができない。ただ、この感情を認めてしまったら、越えてはいけない境界線を越えてしまう気がした。この感情がなんなのかわからないまま、境界線の上で蹲っている。

 兄を思うとどうしようもなく胸が苦しくなる。日に日に強くなる想いに、息を継ぐことを忘れてしまう。

 今日の叙任式でも、目があっただけで、時間が止まればいいと思ってしまった。

 ぐっと拳を握る。胸を掻きむしりたくなった。兄のことを思うと何故こうも気持ちが不安定になるのだろう。一体どうすればいいのだろう。

「オウケン」

 物思いにふけっていると、背後から聞き慣れた声に名前を呼ばれた。振り返ると、デスパー兄が立っていた。

「おっと、騎士団長殿と呼ばなくてはいけませんね」

「やめてよ兄さん、今まで通りで構わない」

「冗談ですよ」兄は小さく笑った。「おめでとう。兄として誇らしいです」

「ありがとう」

「これからも頑張りなさい」

「もちろん、僕は兄者のために尽力するつもりだよ」

「あなたが団長になったことを一番喜んでいるのは、兄者ですからねぇ」

「……兄者が?」

「ええ。平然としているように見えますが、私にはわかります」デスパー兄はぱちりとウインクをして続けた。「あなたより数年付き合いが長いのでね」そう結ぶと、今度は険しい顔で懐から懐中時計を取り出した。

「もっと話していたいですが、このあと街に視察に行くので、また後程」

「兄さんも大変だね」

「兄者に比べたらなんてことないですよ。兄者はなんでもひとりでやろうとしますからね。『(まつりごと)を為すは人にあり』と言ったって、聞きませんから。それなら、私ができることはやらないと」

 肩をすくめ、兄は外套を翻すと、早足で廊下を進んでいった。

「待って、兄さん」

「なんです?」

 兄を慌てて呼び止めると、兄は弾かれたように振り返り、目を瞬かせた。

「あとで……その、相談に乗ってくれないかな」

「ええ、いいですよ。夜には戻りますから、そしたらあなたの部屋に行きますよ。それじゃあ」

 廊下の真ん中で、遠ざかる兄の背中をいつまでも見詰めていたが、ふと王の姿が瞼の裏に浮かぶと、胸が苦しくなった。

 これは、ひとりで抱えるには大きすぎる問題だった。

「それで、相談というのは?」

 デスパー兄は頬杖を突き、組んだ手に顎を乗せた。向かいで萎縮していると、兄は「どうしたんです?」訝しそうに片眉を吊り上げた。黙っていると、兄は背筋を伸ばし、出した紅茶を啜った。

「兄さんは、その人のことで頭がいっぱいになるくらい誰かを強く想ったことはありますか」

「うッ」だか「んッ」だか呻いて、兄は咳き込んだ。

「その人のそばにいたい、そばにいてほしいと切望してしまうのに、相手のことを考えると胸が苦しくなる。この感情が一体なんなのかわからないんだ」

「それは十分恋ですよ」ティーカップが受け皿に戻った。「あなたは恋をしている」

「……恋……」

 復唱すると、口の中が渇いた。

「そうです。あなたは相手のことを愛しているんです。気持ちを留めたままだから、胸が苦しいんですよ」

「ああ、僕は愛してはいけない人を愛してしまった」

「相手は誰なんですか?」

 好奇心の眼差しを一身に受け、再び唇を引き結ぶ。膝の上で拳を握る。デスパー兄は言葉の続きを待っている。テーブルの横の燭台の火が、風もないのに揺れた。

「僕が愛しているのは……兄者だ」

 言葉にした途端、頭の中に立ち込めていた霧が晴れた。昨晩見た夢のような漠々とした想いが、現実になってじわじわと肩に食い込む。足元にあった境界線を越えてしまった。

 今度はデスパー兄が黙る番だった。

「ごめん、兄さん、やっぱり、忘れてほしい」

「まったく、兄者もなんでもひとりで抱えますが、あなたもそうやって無理をしますね」デスパー兄はまた紅茶を飲んだ。ゆっくりとした動作で。「その様子だと、自覚がないまま兄者を想っていたようですね」

「……そうみたいだ」

 膝の上で拳を握る。爪が掌に食い込んだ。

「人はそれを愛と呼ぶんです。いいですか、オウケン。恋に落ちる相手は選べません。あなたが誰を愛そうと、それは運命なんですよ」デスパー兄は穏やかに微笑んだ。「兄者の元に行って素直に気持ちを伝えてきなさい。兄者があなたを拒絶するというのなら、私が兄者をギタンギタンにしてやりますから」

「……にい、さん」

 つんと鼻の奥が痛くなる。奥歯を噛み締めて俯く。

「その涙は嬉し涙として取っておきなさい。さあ、行きなさい、オウケン」

 促されるままに椅子から腰を上げる。

「世話の焼ける弟ですねぇ」

 口元でティーカップを傾けた兄に感謝しながら部屋を飛び出し、王の寝所に向かった。

 安穏とした静寂を破ったのは、小さなノック音だった。手元の書物に落としていた意識をドアへ注ぎ、ヘッドボードから背中を起こす。誰だろうか。寝所を訪れるほどの急用なのか。

「入れ」

 書物を閉じる。ドアが開いた。ドアの隙間から燈が差し込む。懐中燭台を手に立っていたのは、甲冑ではなく、寝衣に身を包んだオウケンだった。

「私用で王の寝所をおとなったことをお許しください」

「構わん」張っていた緊張の糸が弛む。「どうした?」

「兄者、少し、話をしませんか」

 オウケンとしっかりと話をするのは、叙任式以来だった。互いに多忙で、今夜は食事も一緒に取れなかった。

「そこに座るといい」

 ベッドの端を顎で指すと、オウケンは燭台をナイトテーブルに置き、鷹揚とベッドの端に腰を下ろした。硬く厚いマットレスが、オウケンの重さを受けて僅かに沈んだ。

「今日の叙任式、堂々としていたな。だんだんと風格が出てきたじゃないか」

(みな)の規範としてあらねばなりませんから」オウケンは曖昧に笑った。

「それはさておき、なにか大事な話があるのだろう? そうでもなければお前はここまで来ないだろう」

「はい」オウケンは煮え切らない様子で返事をすると、膝の上で組んだ手に視線を落とした。オウケンの横顔は、どこか哀愁が漂っていた。

「僕は、兄者のことを尊敬しています。子供のころからそうでした。いつか兄者のようになりたいと思っていましたが、その気持ちは徐々に、あなたに尽くしたいという気持ちに変わりました。それは兄弟として当然だと思っています。ですが、あなたとの思い出が増えるうちに、その気持ちもまた、形を変えていきました」

 ナイトテーブルの上で、オウケンが置いた燭台の火が瞬いた。

「兄者は……誰かを深く愛したことはありますか?」

 オウケンが首を巡らせた。淡い燈に照らされた眸が潤んでいるように見えた。

「お前のことを愛しているさ。憎たらしい部分もあるが、デスパーのこともな」

「違うのです、兄者」オウケンは立ち上がると、膝からベッドに上がった。距離が一気に縮まる。「そうではないのです」

「オウケン?」

「僕はッ……」

 オウケンの声が震えている。 身を乗り出した弟の太い腕が頭の横で突っ張って、濃い影が被さってきて、頬にあたたかいものがぽたりと落ちてきた。

 それは大粒の涙だった。

「僕は、ひとりの男として、兄者のことを愛しているんです」

 ぼたぼたと涙の粒が降り注ぐ。しゃくりあげてオウケンは語を継いだ。

「あなたのことをお慕いしています」

 今までずっと気持ちを押さえ込んでいたのだろう、箍が外れたようにオウケンは嗚咽を漏らし、胸に突っ伏して泣き出した。

「オウケン……」

 大の男が声を上げて泣いても、情けないとは思わなかった。居た堪れなくなって背中を撫で摩る。

「わかったから、もう泣くな」

 背中を摩られるうちに、オウケンは落ち着いたようだった。

「どうか浅ましい僕を嫌いにならないでください」

「嫌いになどなるものか。お前は大切な弟だ」

 オウケンが生まれた日から今日まで、共に生きてきた。

 芽生えていた兄弟としての親愛はいつしか境界線を越えて育ち、オウケンの心の深い場所へ蔓を絡ませ、透徹とした愛の花を咲かせてしまったのだろう。兄弟間で一線を越えることを禁じる法はない。遠い国では近親婚で純血を残している一族もいる。無碍ではあるが、抵抗を感じられるのは、同じ血筋を交えてはならないという人としての本能だろう。だが、咲き誇る花を踏みにじることはできない。

 それならば。

「オウケン」

「……はい」

「私でいいのか?」

 オウケンは顔を上げた。黒目がちの眸が瞬く。

「ほんとうに私でいいのか? 私には色恋などわからん。おそらくお前が望むように睦みあうことはできないだろう。私はお前の兄であると同時に王だ。お前には冥府の安寧を維持するために、これからも色々と苦労をかけることになる。それでも、私でいいのか?」 

 蝋燭の燈に照らされたオウケンの頬には涙の跡が光っている。それを親指の腹で拭ってやる。

「あなたがいい」オウケンは一刹那、泣くのを堪える子供のような表情を浮かべ、ややあって続けた。「あなたでなくてはいけません。この気持ちは、兄者だけに捧げたいのです」

 己の胸に手を添えて、穏やかな声音でオウケンは言った。

「……そうか。お前の気持ちはよくわかった。お前が幸福だと思えるように尽力しよう」

「そんなことしなくていいのです。僕は、兄者がいれば幸せなのですから」

 片手を掬い取られた。オウケンの手はぬくい。揃えた指先に口付けが落ちる。

「愛しています。僕の、兄者」

 献身的で純粋な愛の囁きは胸を熱くさせた。

「愛い奴め」

 オウケンの頭を抱え込むようにして撫でる。「子供扱いをしないでください」と言われるかと思ったが、オウケンは大人しく撫でられながら、安堵したように顔を綻ばせた。威厳を持つために髭を生やそうとも、弟の笑顔は昔から変わらず屈託なく、愛くるしささえあった。

「兄者、今夜は、ここで寝てもいいですか?」

「添い寝なんて子供の時以来だな」

 なんだか照れくさくなった。オウケンが入れるように身体をずらす。横たわると、男ふたり分の体重を受けたマットレスが深く沈んだ。厚手の毛布を被る。オウケンは――子供の時と同じく――胸に頭を預けてきた。

「おやすみなさい、兄者」

「……おやすみ」

 毛布の中で身体を密着させ、手を握りあった。魂がひとつに溶けあったようだった。

 燭台の燈が夜の境界線を越えた。

「オウケン」

 ちょうど会いたかった人物に名前を呼ばれて、足を止めて弾かれたように振り返った。

 廊下の真ん中で、デスパー兄がにこやかに微笑んでいた。

「昨日あのあとのことを報告をしに、これから兄さんの部屋に行こうと思っていたんだ」

「その表情を見ればわかります。どうやら兄者と結ばれたようですね」

 顔が火照って熱くなった。「兄者は僕を受け容れてくれたよ。デスパー兄が背中を押してくれたおかげで僕は気持ちを認めることができた。兄者に打ち明けることもできた。ほんとうにありがとう」

「礼を言われるほどのことではないですよ」

 顎を摩り、兄は得意げに鼻を鳴らした。

「いいや、感謝してもしきれないよ。兄さんに相談しなかったら、僕はずっと悩んでいた」

「兄者を存分に愛しなさい。あなたが恋に落ちたのは、運命なのですから」

 頷いて、身体に籠った熱をほうっと吐き出す。晴れやかな気持ちだった。

 昨晩、愛するべき体温に包まれながら、兄を愛し抜くと誓った。慎ましやかな愛情を育んでいくのだ。これからは、兄の隣で、同じ方向を向いて、同じ歩幅で歩いていく。唯一無二の絆を深めていく。

「恋っていいですねぇ、私も落ちたいものです」

 うっとりと恍惚の表情を浮かべ、デスパー兄は言った。

「デスパー様、オウケン様、こちらにいらっしゃいましたか」

 兄と揃って声のした方を向く。隊長が小走りに寄ってきた。

「デスハー様がおふたりをお呼びです」

「わかりました。行きましょう、オウケン」

「はい、兄さん」

 三人で足早に玉座の間へ向かう途中、中庭を臨む窓から朧な蒼白い光が差し込んでいるのが見えて歩を緩めた。

 杳とした地底に降り注ぐ朝の光は、淡く蒼く輝いていて、美しかった。