地獄でなぜ悪い

 その人は、冥府でも秀でた学匠だった。

 格物致知(かくぶつちち)を究め、弁舌に優れ、特に(まつりごと)においては明るく、卓抜した才を持っていた。彼はよく私たち兄弟に学びの尊さを説き、勉強を教えてくれた。「知識は力」というのが彼の口癖だった。

 父が彼を側近として擁立するのは当然のことだったと思う。彼もまた父を崇拝していた。先の戦でも策を進言していたに違いない。

 父を討ったのち、彼は投獄された。

そして今、彼は牢獄から玉座の間に引き立てられている。頬がこけ、蓬髪と無精髭でかつての面影はなかったが、眸だけは変わらず生気に満ちていた。

「二度は言わん。私に忠誠を誓う気はないか」

 王は玉座から彼をまっすぐに見据えて言った。後ろ手に拘束されたまま両膝を突いている彼は身じろぎした。

「ありませぬ。我が王はサトゥン王ただひとり」

「お前はなぜそこまで父に尽くすのだ。地獄を作り上げた暴君だぞ」

「地獄でなぜ悪いのです。不死とは誰もが求める甘美なものでございましょうや。老いることなく永遠に生きられるのですぞ。永遠の命さえあれば、この世の知識をあまねく探求できる。素晴らしいことではありませんか」

「不死を語るか。父のせいで多くの民が犠牲になったというのに」

「誰も成し遂げたことのない物事を成すのに、犠牲はつきものです」

 彼は悪びれた様子もなく返した。

 辺りに重苦しい沈黙が満ちる。

 彼の才が惜しいが、父を尊び、剰え不死を説くならば、彼を処断するしかないだろう。

「必要な犠牲だったとは笑わせてくれる。父がお前の首を欲したら、お前はその首を差し出したか?」

「無論」彼は王を見上げた。「サトゥン王が我が首を御所望であれば、私は喜んで首を差し出しました」

「ならばその首を私に差し出せ」

 王の威圧的な低い声にも、彼は屈していないようだった。

「王よ。我が首を刎ねるというのなら、処刑人ではなくご自身で剣を振るわれては如何か」

 控えていた冥府騎士団員たちがざわつきはじめた。私もたまらず声を上げる。「罪人を王自らが処断するなど、そんなことが――」

「下がれ、オウケン」

 言葉を遮られ、弾かれたように兄者を見やる。王笏が床を叩き、甲高い金属音が広がった動揺を止めた。

「無論」王は炯眼を罪人に向けた。「素っ首、私が刎ねてやる。私にはその責任がある」

 罪人は莞爾と笑むと、深々と頭を垂れた。

「ご立派になられましたな、デスハー様」

 彼は顔を上げると、さめざめと涙を流した。

 処刑の準備はすぐに行われた。

 城の北にある、中央が陥没した幅広の低い岩が冥府の断頭台だ。父の代から、流された血は数知れない。岩の窪んだ部分は、血の色が染み付いてどす黒く変色している。

 役目を無くした首斬り役人が、処刑用の大剣を持ってきた。

 王と、首斬り役人と、罪人――決して同じ場所に立っていいものではない。

 処刑には冥府騎士団団長である私と、デスパー兄だけが立ち会った。

「オウケン、目を逸らしてはいけません。これは革命を成し遂げた私たちの最後のケジメです」

 デスパー兄が隣で囁いた。そういえば、彼から一番多く学んでいたのは、デスパー兄だった。

 兄の横顔を一瞥すると、端正な顔は青褪めていた。

「私も、目を逸らしません……」兄の所在なく垂れ下がった腕の先で、握り締められた拳が小さく震えていた。

「兄さん、無理はしないほうがいい」

「いいえ、父の側近である彼を投獄するべきだと進言したのは他ならぬ私です。兄者が今剣を振り下ろす責任があるように、私にはこの処刑を見届ける責任がある」

 兄は剣呑と眉を寄せた。ぬるい風が吹いて、兄の前髪を乱していった。

「冥府の王デスハーの名において、我は汝を斬首の刑に処す」

 王が首斬り役人が抱えた大剣の柄を握った。鞘から引き抜かれた大剣は、私の身の丈ほどある。父の時代から数多の罪人の首を刎ねてきた処刑用の大剣は磨き抜かれ、剣身を鈍く光らせている。

 王自らが処刑用の剣を振るう国というのは、ほかにあるだろうか。

 兄者は、どこまでも自身で責任を負おうとする。

「最期に言い残すことはあるか」

 岩に伏せた罪人はゆっくりと首を巡らせ、兄を仰ぎ見た。その目には恨みも、哀しみもない。揺るぎない覚悟だけがあった。

「お先にサトゥン王に()うて参ります。その冠が飾りにならぬことを、地獄から祈っております」

 罪人は再び顔を伏せた。大剣が振り上げられる。銀の刃が音もなく振り下ろされ、一振りで首が断たれた。

 頭を無くした胴体から勢いなくおびただしい量の血が流れ出て、瞬く間に地面に吸われていく。首斬り役人が、ぬらぬらと赤く照った断頭台から転がった頭を拾い上げる。顔は微笑みを浮かべていた。

「首は晒すな。手厚く埋葬してやれ」

 兄者は首斬り役人に命じると、おさめた剣を私に預けてマントを翻した。剣はおそろしく重い。

 王が立ち去ってようやく、デスパー兄が吐いた。

 その晩王の寝所を訪うと、兄者は窓辺に佇んでいた。

「兄者、今夜はもうおやすみください」

 窓から吹き入る風で、テーブルの上で灯っている燭台の火が揺れる。兄者は背を向けたままなにも言わない。

「兄者」大柄な背中に触れると、兄者は鷹揚と振り向いた。黒々とした眸が潤んでいるように見えて、息を呑む。

「昔は(がく)()()(こう)な男だった」

 今日死んだ文官のことをいっているのだとすぐにわかった。

「冥府の再建に協力してくれると思っていた。あれほどの慧眼の士ですら欲に目が眩むとはな……永遠の命など、あるはずがないというのに」

「彼を変えてしまったのは父です。彼は毒に侵されてしまった。彼はもう私たちの知る人ではなかったのです」

 冷たい夜風が吹き込んできた。今夜は冷える。

「あなたにはもう二度と、罪人を自らの手で裁くという決断はしてほしくありません」兄者の背中に抱き着いて、腹に手を回す。手の甲にぬくい大きな手が被さった。「今度はなにがなんでも止めてみせます……だから……少しは……私を頼ってください」

「お前は優しいなぁ、オウケン」

 兄者の声音は穏やかだった。

 離れると、頭を撫でられた。もう一度抱き着いて、しっかりと抱き締める。身体が密着して、寝衣越しに体温を感じた。

 私は王の剣として、王を護らねばならない。そのためなら、どんな地獄にでも身を投じよう。

 胸を熱くさせる決意を胸に刻んで王を仰ぎ見た。白い頬を濡らす一筋の涙が、蝋燭の火に照らし出されていた。