呪い

 シアタールームで数騎の女性サーヴァントたちとホラー映画を観ている時のことだった。
「女性は生前の恨みが強ければ強いほど、死後に髪が長い姿で現れるのですよ」と巴御前が言った。「ですので、女性の亡霊というものは皆髪が長いのです」そう結んで、彼女は微笑んだ。
 なるほど、とその時は皆と一緒に感心してしまったが、解散して、ひとりになって、ベッドの中でその話を思い出してしまった。
 映画で観た、長い黒髪の間からこの世の全てを恨むようにこちらを睨め付ける幽霊の姿が脳裏に浮かんで、怖くなって、慌ててナイトテーブルのランプの燈を点けた。
 部屋の中がぼんやりと明るくなって、安心感が込み上げた。視線を左へ右へと移動させるが、見慣れた自室はいつもとなんら変わりない。ふーっと吐息をついて、ベッドを出る。猛烈に喉が渇いていた。冷たい水が飲みたくなって、食堂に行くことにした。

 夜間燈が灯った深夜の食堂は無人だった。
 グラスにウォーターサーバーの冷えた水を注いで、入口の傍の端っこの席に座った。
 水を半分ほど飲んで喉を潤し、なんとなく辺りを見回す。食事時になると賑々しい食堂も、今は耳の奥に音が籠るほど静まり返っている。
 今日観た映画で主人公がひとりで水を飲むシーンがあったことを思い出してしまい、苦笑いした。映画では、そのあと主人公の前に幽霊が出た。恐ろしいシーンだった……
 全身が強張った。怖いシーンを思い出すまいと頭を小さく振った時、廊下から靴音がした。音は食堂の壁に沿って少しずつ近付いてくる。入口に顔を向け、四角く切り取られた暗い廊下を凝眸する。
——こんな時間に一体誰が?
 視線を外すことができなくなって、胸の奥で心臓が暴れ馬のように跳ねる。
 影が揺れて、食堂に入ってきたのは、テスカトリポカだった。
「テスカトリポカ?」
「なんだ、オマエか」
 テスカトリポカは意外そうに目を丸くさせ、ジーンズのポケットに手を突っ込んだまま傍に寄ってきた。生じた風に乗ってアルコールの臭いが鼻先を掠めた。
「お酒臭い。バーに行ってました?」
「まあな。少し飲み過ぎた。ちょうどいい。その水をくれ。酔い覚ましだ」
 グラスを差し出すと、テスカトリポカは残っていた水を飲み干した。突出した喉仏が上下するのを見詰めて、ほっと溜息を零す。
「まさかこんな時間にオマエがいるとは思わなかった」
「ああ、喉が渇いちゃって……それにしても、夜の食堂ってこんなに静かなんですね。ホラー映画を観たから、ちょっと怖い」
 肩を竦めると、テスカトリポカは微苦笑した。彼はホラー映画に出てくる幽霊すらエンターテイメントとして捉えているから、怖くはないだろう。
「あ、知ってますか、女の人の幽霊の髪が長いのは、恨みが強いからなんだって。恨みが強いほど髪が長いらしいですよ」
「それならこの世の亡霊は誰もが長髪だな」
 酔い覚ましには足りなかったのか、テスカトリポカは空いたグラスを片手にウォーターサーバーに歩み寄り、並々と水を継いだ。
「恨みというのは」グラスを口元に運び、テスカトリポカはわたしに視線を寄越した。「厄介だよ」彼は水を二口あおった。
「厄介……?」薄く開いた口からすっと空気が漏れた。
 テスカトリポカは水を飲みながらわたしの向かいの席に腰を下ろした。グラスの水はもう半分もない。
「自分や同朋の命を奪われることへの恨み、歴史を踏みにじられ、安寧を壊される恨み、大切なものたちを蹂躙されることへの恨み……そうやって様々な恨みを抱えた敗れた戦士を少なからず何人か見てきた。オレの楽園で傷付いた魂を癒そうとも、戦士たちの骨髄に徹した恨みを取り除くことはできない。ソイツらは恨みを晴らすためにまた戦うんだ。それこそ、取り憑かれたようにな」
 亡霊と同じだと続けて、彼は頬杖を片方突き、手の甲に顎を載せた。
「戦いに勝つということは、相手の命をもらい受けるだけじゃあない。敗れた者の恨みも己の血肉として前へ進まねばならん。敗者の恨み辛みの爪痕は、おまえさんの中にもあるだろう? 自覚があるかはわからないがね」
 胸の奥で落ち着いていた心臓が勢いよく弾んで、戦いの記憶が噴水みたいに頭の中に溢れ出した。中には、わたしを恨んで消えた者もいる。彼らのことを忘れたことはない。
「強すぎる恨みはソイツの魂を壊しちまう。どうにもならない。敵を恨むなとは言わんが……オマエだけは、そうなるな。恨みで自分を見失ってくれるなよ」
 テスカトリポカの細い眉が寄った。眉間に深いシワが刻まれる。サングラスの奥で、物哀しげに眸が瞬いた。
「恨まれるのは、厭です。でも、誰かを恨むのはもっと厭。わたしは誰かを恨んだりしません。どんなことがあっても戦うと決めたんです。それがわたしが自分で選んだ道です。この先なにが待っていようとも、どんな結末になろうとも、わたしは絶対に人を恨んだりしない」
 静寂が張り詰めて、厨房の方から、冷蔵庫かなにかの低い可動音がした。
「潔いな」テスカトリポカは喉の奥で笑って、頬杖を崩してグラスを手繰り寄せた。冷えた水は瞬く間になくなった。「オマエのそういうところにそそられるよ」
 グラスの底がテーブルにあたって、かつりと小さな乾いた音が跳ねた。
「立香」
「はい」
「戦え」
「はい」
 短いやりとりのあと、テスカトリポカは満足そうに頷き、鷹揚と腰を上げた。
「それでこそオレが祝福すべき戦士だ。……さあ、お開きにしよう。幽霊が怖いのなら部屋まで送ってやってもいいが、どうする?」
「うん。お願いします」
 使用済みのグラスを厨房のカウンターに置いて、揃って食堂を出る。
 廊下は夜間燈に照らされていたが、茫洋とした暗闇が果てしなく続いていた。幽霊のことは忘れていた。もう怖くなかった。それでも、今だけはテスカトリポカに傍にいてほしかった。数多の戦いの中で命の終わりを見届けてきた彼に。人間の底知れぬ恨みを知る彼に……
 果たせなかった者たちの、わたしに対する灼熱の怨恨の火種が胸の奥で弾ける。恨み辛みの炎の中を進み、わたしはこれからも戦うだろう。
——まるで呪いみたいね。
 暗闇の中で、さっき観た映画の主人公のセリフが脳裏を過った。