優しいキスをして

 そういえば、人は大切な存在を忘れる時、最初に声を思い出せなくなると、なにかの本で読んだことがある。
 次に、顔を正確に思い描けなくなる。そうやって少しずつ記憶から抜け落ちて、人は人を忘れていく。思い出は消えてしまう。
 彼は毎日それを繰り返す。二十四時間のうち五分間の記憶だけを維持して、他は忘れてしまう。
 二十四時間。 
 千四百四十分。
 そのうちの五分間だけが、彼にとっての一日なのだ。
 わたしとの会話も、触れた指先の熱さも忘れてしまうのだろう。今だってそう、このキスだって、明日にはきっと――。
「何故、泣いている?」
 キミのキスが優しいから泣いている……そうとは言えなくて、指の背で目尻から溢れてしまった涙を拭う。
「このキスも、明日にはキミは忘れてしまうんだなって思うと、なんか泣けてきちゃって」
 震える唇の端を無理やり持ち上げた。
「忘れたとしても、何度でもするけどね」
 デイビットはゆっくりと瞬きをして、おもむろにわたしの頬に触れた。
「忘れはしないが、そうだな……」
 指の腹が涙のあとを拭う。
「何度でもしてほしい」
 そう言ってデイビットは目を細めた。眸に慈しみの影がよぎった。ふたりの時に見せる、穏やかな表情だった。
「何度でも?」
「ああ、何度でも」
 安息がふたりの間に降りてきて、先にわたしが笑う。
「やっぱり恥ずかしい。忘れて、今の」
「いいや、忘れない」
「もう……」
 見詰め合って、デイビットの指を握る。どちらが先というわけもなく、引き合ってキスをした。
「好きだよ、デイビット」
 吐息が鼻先で弾む。彼は答える代わりに、唇を重ねてきた。離れたくなかった。
――どうか私を忘れないで。いいや、忘れていい。わたしは必ずキミに会いにいく。ちゃんとキミが好きだと伝えるし、何度だってキスをする。