亡霊

 高潔で勇敢である名うての騎士が、父によって処刑された。

 礼節を重んじ、規律を尊び、慎ましやかで、自分たち兄弟にも優しかった彼が処刑されるほどの罪を犯したとは思えない。

 不死の研究に没頭する父は、彼の頑健な肉体と血を欲したのだろう。その証拠に、罪人と違って彼の首は晒されていない。首がどこにいったのか、わかっていない。

 夜になると、城内に首のない騎士の亡霊が現れるという噂が立ったのは、彼が処刑されて七日目のことだった。

 亡霊というのは、怨みを抱いて死んだ者の報われない魂の成れの果てである。国のために忠義を誓った彼の最期を思うと、彼の無念は想像に難くない。

 亡霊を見た者たちは、皆「恐ろしかった」と口を揃えた。

 己の首を探して彷徨っている――噂は広まり、恐怖は瞬く間に伝染した。

 まだ幼いデスパーもすっかり怯え、夜はオレのそばを離れなかった。母上のところへ行けばいいのに、男児たるもの、怯えているのを知られるのが恥ずかしいのだという。

 その日も、デスパーは気に入りの本を抱えてオレの寝所に来た。ベッドに入ってすぐに『騎士道物語』を読むようせがまれた。ヘッドボードに寄り掛かり、ぴったりとくっついてくる弟に読み聞かせをするうちに、デスパーは毛布の下でもじもじしはじめ「兄者、厠に行きたいです」袖を引っ張ってきた。

 デスパーの手を引いて寝所を出て、懐中燭台の燈を頼りに暗い廊下を進んだ。

 夜の城内は静かだ。寝所は居館の最も高い場所にあるため、別棟にある厠まで距離があり、子供の足では時間が掛かる。

 寝所を出て間もなくして、廊下の奥に燈を見付けた。見廻りの冥府騎士団員の提げた懐中燭台の燈だった。向こうから歩いてくる騎士を見て、デスパーは足を止め、背中に隠れてしまった。

「首があるだろう。それに、燭台を持っている」

 デスパーの手を握り直すと、安堵した弟の小さな身体から力が抜けるのがわかった。また歩き出すと、すれ違いざまに騎士は一揖した。三人分の影が石造りの壁に貼りついた。

 それから歩き続けて、階段を下りて、なにごともなく厠に着いた。

 弟が用を足している間、外で待った。気が付けば燭台の蝋燭が短くなっていた。

 デスパーと並んで来た道を戻り、居館へ続く廊下に差し掛かった時、風もないのに蝋燭の火が大きく瞬いた。急に空気が冷たくなって、肌が粟立った。

「あ、兄者、あれ、なんですか……」

 立ち止まったデスパーが遠くを指差した。弟の指先を追って暗闇の奥を見据え、目を凝らす。暗闇に慣れた目は、十数ヤード離れた廊下の真ん中に立つ濃い影の輪郭を捉えた。 

 人型のシルエットと呼ぶには、不十分だった。頭の部分が欠けている。影は左右にふらふらと揺れながら、少しずつ近付いてきているようだった。

――まさか。ほんとうに、亡霊が。

 燭台を掲げる。薄らぼんやりと遠くまで明るくなった。廊下の奥に、金色の甲冑を纏った、首のない騎士がいた。甲冑は首元から腹の辺りまでどす黒い血がべったりとこびりついていた。

「あにじゃあ……怖いです」

 デスパーがか細い悲鳴を上げてしがみついてきた。

 騎士は両腕を伸ばし、一歩一歩踏み締めるように距離を詰めてくる。甲冑の留具が擦れる硬い音に、デスパーの緊張と恐怖で乱れた息遣いが混ざる。

「デスパー、オレのうしろへ」

 弟を下がらせ、掌に意識を集中させる。蒼白い(いかづち)が指先で弾けて、掌全体が帯電する。衝撃で生じた風が髪を逆立てた。

 剣がなくても戦える。亡霊に雷が効くのかはわからないが、害をなすというのであれば、戦わなくてはならない。弟を護らなければならない。

 鋭い雷の刃を握り締めた時、目の前まで迫っていた騎士は動きを止め、ゆっくりと跪いた。そして、生前と同じく、まるで粛然とこうべを垂れるように背中を丸めた。首の断面が、掌の上で眩く光る雷光に照らし出される。

――私の首を知りませんか。

 耳元ではっきりと声がした。うしろにいるデスパーの声ではない。声の主は、今目の前で片膝を突いている騎士のものだった。生前の彼の穏やかな微笑みが瞼の裏に浮かぶほどに、声は静かで、落ち着いていた。

 敵意は感じられなかった。雷が手の中で勢いをなくし、消滅した。

「……首を、探しているのか」

 応えるように騎士は身体をもたげた。骨と肉の詰まった剥き出しの首の断面から、濃い血の臭気が立ち上っている。

「お前の首がどこにあるのか、知らないんだ」

 すまない、と結ぶと、騎士は鷹揚と立ち上がり――フッと消えた。

 鼻先を掠めていた血の臭いはなくなり、うしろから轟々と低い音が響いて、強い風が吹き抜けた。燭台の先に灯る火が消え、細い煙がうねって、辺りはありふれた暗闇と静寂に包まれた。

 恐怖で固まったままのデスパーを抱き上げて、寝所まで戻った。

 翌日から彼の首を探したが、見付からなかった。

 父に訊いても、父は首の行方を決して明かさなかった。

 せめて慰めになればと彼を弔ったが、おどろおどろしい噂と目撃談は絶えなかった。

 あれから長い時が過ぎたが、あの夜以降、首無し騎士の姿を見たことはない。それでも、鬼哭に似た風の音を聞くたびに彼の声を思い出す。

――私の首を知りませんか。

 冥府の古城には、今もなお、己の首を探して彷徨う亡霊がいる。