世界を滅ぼす者へ餞を

 レイシフト先で対峙した敵は強かったが、勝利した。

 敗北即ち死であるから、勝利するのは当たり前のことだ。掴み取った命を明日に繋げていく。そうやってここまできた。今までも、そしてこれからも、そうやって生きていく。生きなければならない。

 頬や前腕に浅い傷を負ったが、大したことではなかった。特殊な創傷被覆材に覆われているから、この傷は数日後には痕も残らず完治するだろう。

 手当てとメディカルチェックを終え、戦闘データの詰まったタブレット端末を携えて部屋に戻ると、煙に出迎えられた。

 テスカトリポカがいつもの場所で――ベッドに腰掛けて――一服していた。

「よう、お疲れさん」

 示指と中指で挟んだ煙草(シガレット)を唇から離し、濃い紫煙を吐き出して、テスカトリポカは組んでいた足を組み替えた。

「好きですね、わたしの部屋」

「ここは居心地がいいからな。もうオレの部屋のようなものだろう」

「わたしの部屋です」わたしの、と二度言って、椅子に腰を下ろす。夕食はまだ先だ。戦闘データを確認する時間は十分ある。

「なあ、マスター」

「なんです?」

「髪は結ばないのか?」

 予想外の唐突な問い掛けに、タップしようとしたタブレット端末の画面から顔を上げ、テスカトリポカを見やった。「どうしたんです、いきなり」

「大したことじゃないが」テスカトリポカの視線が、わたしが座る椅子の真横のテーブルに一瞬向いた。片隅には、シュシュや櫛が入ったケースがある。「年頃の女なら気にかけるものだろうと思ってな」

 彼に倣って、ケースを一瞥して「ああ、これね。今は、うん」言葉を澱ませて苦笑いする。

 以前は毎朝身だしなみを整える時に、お気に入りのシュシュで髪を結んでいた。いつからだろう、そうしなくなったのは。

「前は、どんな時もこれで髪を結んでました。今はもう、結ばないけど」

「何故だ? おまえにとっての戦化粧じゃないのか?」

「そんなすごいものではないですけど、なんていえばいいのかな。もう子供じゃないっていうか、今のわたしには似合わないっていうか……」

 タブレット端末をテーブルに置き、懐かしさに目を細めて、一番のお気に入りだった黄色いシュシュを手に取り、眺める。たまには結んでみようと思う時もあるが、結局結ばない。面倒だとか、気がのらないとか、そういうわけではない。

 今のわたしには、この髪飾りは似合わないだろうと思ってしまうのだ。

 わたしは変わってしまったのだ。これを着けていた頃のなにも知らないわたしはもういない。あの頃には戻れない。

 正義と悪では線引きできないことがあることを知った。選択することの難しさを知った。足掻いてもどうにもならない理不尽さを知った。喪う痛みを知った。ひとつを救うために多くのものを壊してきた。たくさんの犠牲の上に立つのが今のわたしだ。

「いつかまたこれを使う時がくるかもしれない。こないかもしれない。今は、わからないな」

 泣くつもりはないのに、涙が湧いた。涙が零れないように、ちょっとだけ顔を上げて顎を固くさせるが、瞬きを一度でもすれば零れてしまいそうだった。袖口で荒っぽく目元を拭う。

「その時はまたくるさ」

 テスカトリポカは灰皿の中で煙草の火を揉み消すと、腰を上げ、鷹揚と歩み寄ってきて、わたしのうしろに立った。

「戦化粧というものは、戦意を高めるだけのものじゃない。戦士への(はなむけ)でもある」

 テスカトリポカの両手が肩にのった。

「おまえがミクトランパへ来たら、オレが焚き火のそばで髪を結わいて送り出してやる。だからそれまでは――」心臓に馴染んだ声が耳元でして、世界を滅ぼしてきた神の指がわたしの髪を一房掬い取った。「戦って、壊して、滅ぼせ」

 濃霧が立ち込める彼の楽園の入口を思い出しながら、吐息で笑う。

 そういえば、あそこの焚き火は、わたしの髪と同じ色をしていたっけ。