遠くからパトカーのサイレンが聞こえる。けたたましい残響は途切れそうになった意識を繋ぎとめた。鈍く痛む頭を持ち上げて鼻から夜気を吸いこむと、雨と、汚物の据えた臭いがした。
なんて臭いだ。
目を開けると、光の欠けた陰惨とした景色の中にいた。繁華街に灯るネオンの明かりも届かない路地裏だと気付くまでに時間がかかった。こんなところに迷いこんでしまったなんて、悪い夢だと思えるならそう思いたいが、あいにく、現実らしい。
ふと視線をずらすと、血の臭いを嗅ぎつけたのか、コンテナの陰から、痩せ細った野良犬が顔を覗かせていた。
犬は足音も立てずに寄ってきた。暗闇に浮いた眼だけが、ぎらぎら光っている。
「あっちへ行ってくれ」
切れた口の中が沁みた。フェンスに寄りかかったまま、辛うじて動く左手を振り上げて犬を追いはらおうとするが、犬は四肢を踏ん張って牙を剥き出しにしてうなり、毛を逆立て、貧相な身体を膨らませた。今にも飛びかかってきそうだ。
負傷した身体では、犬一匹追いはらえないか。
単独で敵のアジトに踏みこんだ軽率さを後悔しても遅く、自嘲するにはあまりにも惨めだった。こんな路地裏で死に体を晒すなど、ヒーローにとってあるまじきことだ。
ここまでなのか、私は。
叫びたかった。だが、声は出なかった。唸って、猫背勝ちに痛む脇腹を押さえ、犬を睨んだ。汚物の臭いと、銅に似た血の臭気で嗅覚が麻痺してきた。四肢の感覚も、なくなってきた。
反響していたサイレンが遠のいて、生臭い沈黙が降りてきた。
不意に風が吹いた。
犬が一歩踏み出す。
「汚ねえ野良犬と死にかけの野良犬がいると思ったらお前かよ、シャリ男」
殺気をさえぎった涼し気な声がした方へのろのろと顔を向けると、マントを夜風にはためかせて路地の真ん中に仁王立ちしている男のシルエットがあった。
「ほらワン公、あっち行け」
シルエットが近付いて来ると、途端に野良犬は尾をぴたりと腹に付けて身をひるがえし、闇の中へと走り去っていった。
「よりによってキミか……こんなところを見られるなんてな」
弱い月明りに照らし出されたのは、ワルノリンだった。先日、自分のチームにスカウトした問題児だ。無論子供ではないが、無邪気で残酷な少年のようなのだ、彼は。
「カッコつけてひとりで無茶するからそうなんだよ」
「ああでもしなければ首謀者を逃がしてしまうところだった。私はあいつを何年も追っていたんだ」
「でも結局その片想いの相手には逃げられたワケだろ?」
「……見ていたのか?」
「まあね。ああ、ちゃんと仕留めといたぜ」ワルノリンは飄々を続けた。「国道でハマー大炎上! 今頃トップニュースだな。カッコイイボクちゃん、ちゃんと映ってるかな」
なんて、呑気な。
国道の真ん中で、横転して爆発するハマーを背に悠々と立ち去るワルノリンを想像するのは簡単だった。身体から力が抜けた。重心が傾いて、フェンスが無機な音を上げて揺れた。
「ボクちゃんのおかげで事件解決だ」
「尻拭いをさせてしまったな、すまない。リーダーとして至らなかった。今も、野犬すら追いはらえなかった。キミがいなかったら、私は今頃ここで力尽きていたかもしれない」
「……辛気臭ぇなあ、もう」
そこからは一瞬だった。顎を掴まれ、影がかぶさってきて、瞬きをする間も無く唇を塞がれていた。抵抗はできなかった。マスク越しといえども、随分と情熱的な口付けだった。
「……ッ」
息ができなかった。背中でフェンスが揺れる。吸われていた下唇からちゅっと小さなリップ音が弾んだ。
「……やっと黙ったな」
顎を掴み取っていた手が離れた。ワルノリンのモノアイが、愉快だとでも言うように半月に歪んだ。
「んー、血の味しかしねえ」
「なにをするんだ」
「こうでもしないと、えんえんとクソつまらない話をするだろ?」
「私の話は、つまらないか」
「ああ、クソつまんねえよ」
ワルノリンはフンと鼻を鳴らした。
「過ぎた話にデモとかカモとかいらないっつーの。ほら、行くぞ」
生臭い路地裏をワルノリンに支えられて歩いた。血の跡が点々とアスファルトの路地に続く。身体がひどく痛むが、生きている。身体中から滴り落ちる血が、そう思わせた。
「アンタの話を聞いてて面白いと思ったのは一回だけだ。「お前は私のチームにふさわしい」って前にボクちゃんに言っただろ? あれは面白かった」
「……ちゃんと聞いていてくれたんだな、私の話を」
「まあな。だから今はチームの一員らしくしてやるから大人しくしてな。出血大サービスだ。出血してるのはボクちゃんじゃないけど」
――チームというのは皆で支え合っていくものだ。
先日ワルノリンに「チームの在り方」を散々説いたことを思い出した。それを守れず、こうして大切なものを失いかけた自分がいる。
「ああいう状況でも次からは誰か呼べよな。オレとかさ」
「ワルノリン」
「なんだよシャリ男」
「ありがとう」
「……ケッ、野郎から礼を言われても嬉しくねーんだよ」
腰を支える手が力むのを感じた。
路地裏に伸びた影は重なったままだった。
弱々しい月明りだけが、ふたりのヒーローを照らし出していた。