ダイナーの片隅で

※謎アース

 イースト・フラミンゴ・ロードにあるダイナー『砂漠の片隅』の小ぢんまりとした店内は、朝にふさわしいコーヒーの香りが漂っていた。
 ボックス席とカウンター席は、夜勤明けの警官や、出勤前のビジネスマン、仕事を終えたストリッパーや、朝刊を読み耽る老人でまばらに埋まっている。皆、半世紀以上前からラスベガスの明暗を見てきたこの店を愛する常連だった。
 赤い屋根に、白い壁と大きな窓、歴史を感じる木製のカウンター、何度か取り替えられた牛革のソファ、旧式のコーヒーメーカーに、壁に掛かった色褪せた写真……ガイドブックには載らないこの店は、地元の人間ならば誰もが知っている。
 店の一番奥の窓側のボックス席にいるデイビット・ゼム・ヴォイドと、その恋人である藤丸立香もまた、このダイナーの常連だ。
 一年ほど前、深夜のドライブ中に立香が「お腹すいた!」と言い出したことがきっかけで、ふたりはこの店に入った。デイビットが最初に食べたのはフレンチフライで、立香はシロップたっぷりのパンケーキだった。古めかしいが、静かで、料理もコーヒーも美味い店だった。なにより、行きつけになっても、店主やウェイトレスがプライベートに深入りしてこないのがよかった。立香もパンケーキを気に入ったらしく、デイビットは彼女を連れて頻繁にこの店に足を運ぶようになっていた。
「なに食べようかな」
 メニュー表を覗き込み、「うーん」と唸って、立香は唇を尖らせた。デイビットは昨晩、彼女を車で自宅まで送り届け、別れる前にこの可愛らしい唇を堪能していた。
「君はいつもパンケーキだろう」
「たまには違うものが食べたい時だってあるよ」
 顔を上げた立香は頬杖を突き、顎を載せて言った。
「今日は朝からがっつりいきたい気分。思い切ってステーキにしようかな? あとは、レモネード」
「それなら、俺も違うものを食べよう。そうだな……ハムとチーズのオムレツにしよう。それと、ホットコーヒー」
「あとはなにか食べる?」
「俺はいい。君は?」
「うん、わたしもこれでいい」
 カウンターの方へ立香が首を巡らせると、すぐにウェイトレスが微笑みを浮かべて寄ってきた。
「ご注文は?」
 店の壁掛け時計は、午前9時15分を少し過ぎていた。デイビットは、昨日もこの席で、この時間にこんな風に彼女と朝食を摂っていた。24時間のうち5分間しか記憶を維持できないデイビットが残す、ほんの1分にも満たない朝の記憶は、平穏で、コーヒーの香りがする。

「お待たせしました」
 デイビットの前に、ジュウジュウと音を立てる黒光りした鉄板が置かれた。端からはみ出している分厚いステーキの真ん中には、溶けかけたバターのかけらが載っていた。
 爛々と目を輝かせる立香の前には、デイビットが食べるオムレツが置かれる。
「はいこれ」注文していない、チェリーと生クリームの添えられたプリンがふたり分並んだ。「うちからのサービスよ」
「え! ありがとうございます」
 ウェイトレスは立香にウインクをすると、足早に客の待っているレジに向かった。
「君がステーキを食べるとは思わなかったようだ」
 湯気を立てる鉄板を彼女の前に移動させながら、デイビットは微苦笑した。
 ふと視線を上げると、窓から差し込む朝日がストローを摘んでレモネードを飲む彼女の赤毛を艶やかに照らし、整った白いかんばせを縁取っていた。生き生きとした美しさは、半世紀以上前から時間が止まったようなダイナーには似合わない。
 見惚れていると、「前にもプリンを食べたの、覚えてる?」黄金色の朝日を浴びた立香は首を傾いだ。
「君が口の端にクリームをつけていたことも覚えている」
 デイビットは努めて平静に答えた。
「もう、そういうことは忘れていいのに」
 ナイフとフォークを手に取り、いただきますと呟いた立香につられ、デイビットもいただきますと零し、手元の皿に視軸を落とした。ハムとチーズのオムレツと、付け合わせのビスケット・グレービーが載ったワンプレート。この店で時々彼女と朝食を摂るようになってから、初めて食べる料理だ。
 オムレツの真ん中を切った。裂け目から、溶けたチーズが溢れ出た。ハムと一緒に一口頬張って、咀嚼して、飲み込む。
「このステーキ、すごく美味しい」フォークを口元にやったまま、立香は長い睫毛に囲われた眸を瞬かせた。「バターのコクがクセになりそう」唇が緩やかな弧を描いたかと思ったら「ん、あっつ」柳眉が寄った。
 彼女は表情が豊かだ。わかりやすいくらいに。しかし、それが愛おしかった。恋人の喜怒哀楽の表情すべてを記憶したいとデイビットは思う。たとえこのオムレツの味を忘れたとしても。
「少し食べる?」
 レモネードと同じ色をした眸がデイビットを映す。
「もらおう」
「いいよ。あーんして」
 ミディアムレアのステーキが一切れ、口元へ運ばれる。斜め向かいの席にいる警官がにやけ顔でこちらを見ていた。
「美味い。焼き加減もいい」
「朝からステーキも悪くないでしょ?」
「悪くないが、バターたっぷりで胃もたれしそうだ」
「メニューに『特製のバターソース』って書いてあったからね」
 立香はステーキをぺろりと平らげ、レモネードを飲み干し、「甘いものは別腹だから」とプリンも食べた。
「ねえ」
 客が減ってきた頃、静かな声音で、立香は食後のホットコーヒーを啜っているデイビットを呼んだ。
「明日は、わたしが朝ご飯を作ってあげる」
 だから、と彼女は語を継いだ。真っ直ぐに恋人を見詰める視線には熱がこもっていた。
「……今夜、泊まってもいい?」
 コーヒーカップをソーサーに戻し、デイビットもまた真っ直ぐに恋人を見据え、テーブルにあった小さな手を握り「もちろん」頷いた。
 立香がまた笑う。指が絡んで、体温が重なる。
 今夜は彼女となにを食べよう? 明日の朝はなにが食べられるのだろう……すっかり冷めたコーヒーを飲み終えたデイビットは、胸を満たす温かさにわずかに口の端を緩める。
 大切な人と、食事をするささやかな時間は、忘れがたい大きな幸福だった。
 ダイナーの片隅で、太陽よりも眩しく、煌びやかな愛に満ちた一日がはじまった。