またどうぞ

 城勤めをやめるのを機に、城市に家を買った。

 庭付きの、大きな家だ。大きな浴槽のある風呂場に、かまど付きの台所、天井が高い書庫や、朝になると外からの明かりが差す寝室も客間もある。一番気に入ったのは、剣術師範として弟子と鍛錬できそうな、だだっ広い、床も壁も頑丈な稽古場があることだった。ひとり暮らしをするには大きすぎる家だが、これがあるから、この家を買ったのだ。

 地底に流れ込んでくる熱気に満ちた風に涼しげな秋の気配を感じはじめたころ、私は長年住んだ城を離れた。

これからは、片時も離れず護ってくれる護衛も、身の回りの世話を焼いてくれる従者もいない。私はひとりだ。

 新居に越してきて一週間が経ったが、ひとりでは、荷解きするのも苦労した。

 腹が減っても食事は自分で作らなくてはいけないし、汗を掻いて風呂に入るために湯を沸かすのだって、自分で水を汲んでくるところからはじめなくてはならない。

 城にいるころとはなにもかもが違った。けれど、新しい生活というのは、悪いことばかりではなかった。城にいたころよりも選択肢は狭まるが、自由だった。街に出てみれば、ありのままの民の姿を見ることができた。かつては荒廃し、衰退の一途を辿っていた冥府は、ほんとうに豊かな国になったのだと感じることができた。

 父の統治で怨嗟と苦しみに満ちていた国は変わった。この国を変えたのは兄者だ。築き上げた安寧と秩序は、兄者の統治が続く限り保たれるだろう。

――私が城にいなくとも、兄者はきっと大丈夫。

 居間で物思いに耽っていると、玄関のドアがドンドンと大きくノックされた。

 弾かれたように立ち上がる。ドアはまだ叩かれている。夜も遅い。こんな時間に来訪者だなんて、一体誰だろう?

 おそるおそるドアを開けると、そこにはフードを深く被った大柄な影が立ちはだかっていた。体格のいい男だと一目でわかる。

「どなたです?」

 怪訝に眉を持ち上げる。男は答えない。まずい。暴漢だったらどうしよう。

「オレだ」

 一拍置いて、男はフードを外した。見慣れた顔が現れて、口がぽかんと空いた。

「あっ……兄者!?」

 紛れもなく、目の前に立っているのは兄者だった。

「どうしてここに?」

「早々に根を上げて城に戻ってくるかと思ったが、中々戻らないから様子を見にきた。ひとり暮らしは快適か?」

 ヒヒヒと喉を震わせて笑う兄者の背後には、よく見れば冥府騎士団が数人いた。それに、兄者の愛馬も。

 兄者はお忍びで私の家にきたのだろう。追い返す理由はない。

「まだ荷解きも途中なので散らかっていますけど、まあ、上がってください」

 居間に通すと、兄者はどっかりと椅子に腰を下ろした。王冠もマントもなく、目立たぬ夜の色をした外套を身に纏っていても、威厳があった。

「紅茶を淹れますから、寛いでいてください」

「ああ」

 湯を沸かし、蒸らし、兄者の分には砂糖をふたつ入れて、ティーカップを受け皿と共に差し出す。兄者の手には小さいが、うちにはこれしかない。

「意外と質素な暮らしぶりだな」

「元から私は質素ですよ。兄者ほどではないですけどね」

「お前のどこが質素だ」

 湯気を立てるティーカップを口元に引き寄せ、兄者は笑った。嫌味を言うわりには、穏やかな笑みだった。

「困っていることはないか」

 向かいに座って淹れたての紅茶を一口飲んだ時、兄者はそう言って私を見据えた。

「ふふ、困っていることばかりです。ひとりだと、荷解きにも時間が掛かります」兄者が口を開く前に、でも、と続ける。「私が選んだことですから。ゆっくり、慣れていこうかと思います。楽しいですよ、ひとり暮らしも」

「……そうか」

 兄者は目を細め、また紅茶を啜った。「うまい」

「私が淹れたんです、当然でしょう」

 胸を張ってみるが、嫌味が返ってくることはなかった。

 その後も兄者は近況について訊ねてきた。私を心配してくれているのだ。それが嬉しくて、もどかしい。

「お前が悠々自適にひとり暮らしを謳歌しているならそれでいい。さて、オレはそろそろ帰る」

 どれくらい経っただろう、ティーカップの中身を飲み干して、兄者はゆっくりと立ち上がった。それに倣って腰を上げる。もう帰っちゃうんですか、とは言えなかった。

 玄関に辿り着く前に、廊下の途中で兄者を呼び止める。

「なんだ?」

 足を止めて振り返った兄者の胸元を掴み、思い切り引き寄せ、唇を塞いだ。触れるだけの口付けは、城にいた時に交わしていたものとは違う熱を帯びていた。

「会いに来てくれて、嬉しかったです」

 兄者との関係を城の外に持ち出す気はなかった。城を出た時から、兄者との兄弟愛以上の関係は終わらせるつもりだった。

 けれど、それは……やはり難しい。

「私の紅茶が飲みたくなったらまた来てください」

 手を離し、精一杯微笑みを取り繕う。

「デスパー……」

 兄者の指が顎に触れて、くっと持ち上げられた。影が被さって、唇が重なる。

「……兄者……?」

「お前も、たまには城に来い」

 囁きはあたたかな優しさに満ちていた。

 兄者は外套を翻すとフードを被り直し、背中を向け、玄関のドアを開けた。湿った夜気が家の中に流れ込む。

 城に戻る王の一行が見えなくなるまで見送ると、先程まであった、馴染みはじめたありふれた日常が戻ってきた。

 下唇に触れ、兄者とのキスを思い出す。誰にも知られることのない兄者との関係は、これからも続くだろう。

 居間に戻り、空いたティーカップを見下ろして、小さく笑った。

 兄者、私は、あなたを愛しています。