昨晩、ベッドの中で一方的にじゃれていたら首を咬まれた。それもスキンシップとしてではなく、獅子が獲物の息の根をとめるように思い切り。
「こりゃあしばらく消えねぇな」
洗面台の鏡の前で独りごちて、苦笑いをする。
肉の薄い首の付け根にくっきりと歯形がついていた。鬱血混じり痣は、鎖骨の間にぶら下がる「幸運のカンガルー」よりも目を引いてしまう。じゃれすぎたようだ。
――貴様がいつも私にするように、私も証を残すとしよう。
強張っていた顎が緩んで首から離れ、持ち上がっていた頭が枕に戻って、してやったりと言わんばかりに、彼は笑った。
夜な夜な彼の肌に歯を立てたり、キスマークを残した報復は、しばらくは鈍く痛むだろう。傷は誇りを持って見せびらかすものだが、これはどうしたものか。
「次は優しく咬んでほしいもんだな」
厳格な科学者の不可侵領域に踏み入って親愛を爆発させてからまだ日は浅いが、彼との関係は心地いい。
彼への信頼と愛情を手放すつもりはない。
これで最後だ、誰かを愛するのは。
キッチンからコーヒーの香りがする。
一日がはじまる。
ヒューズという男の扱いにはもう慣れた。
今朝も「おはようベイビー。今日もいいケツしてんな」と尻を叩かれても、平坦に挨拶を返すほどだ。構うよりも、今はこうしてキッチンで朝一番のコーヒーを淹れる方が重要だ。
「さすがにそろそろ剃るか」
食卓からヒューズの独り言が聞こえ、なにげなく手元のコーヒーポットから彼の横顔に視軸を移すと、頬から顎にかけてうっすらと伸びた不精髭を摩っていた。彼が時折ナイフの背で頬を撫でているのをふと思い出した。あれでも手入れになっているのだというのだから驚く。
意識を並べたマグカップに戻してなみなみとコーヒーを注いだ。ふたりとも砂糖とミルクはいれない。
湯気を立てるマグカップを持って食卓に戻る。彼の前にマグカップを置くと、ある閃きが沸騰した湯のように胸を熱くさせた。
「私が剃ってやろう」
彼は目を丸くさせてこちらを見た。
「いつから床屋になった?」
「我が家にはいい剃刀がある」
若い頃から、折り畳み式の直刃剃刀を愛用している。
握りやすい持ち手から真っ直ぐに伸びた剥き出しの刃は手入れを欠かしたことがなく、数十年経った今も錆ひとつない。
「俺の自慢の髭は剃らないでくれよ」
ヒューズは食卓の椅子に深く座り、背凭れに寄り掛かると、喉を反らした。
「なら動くな。いいな」
「わかったわかった」
洗面所から持ってきたシュービングマグで泡立てたクリームをブラシで掬う。頬や顎の下まで塗りたくっている間、彼は目を閉じていた。
剃刀を手にすると、ヒューズは瞼を持ち上げた。上と下で視線がぶつかる。
「きれいに剃ってくれ」
ヒューズの囁きは嗜虐心をくすぐった。
「……もちろん」
首の側面に斜めに刃を当てる。この男の命を握っている喜びに打ち震えそうになる。もしうっかり手を滑らせたら、鋭利な刃が彼の薄い肉を裂き、頸動脈を優しく撫でるだろう。
ここで彼を殺してしまっても、痕跡ひとつ残さずに日常に戻る自信がある。
「よく私の前で無防備になれたものだな」
刃は顎の先まで滑り、クリームと細かな髭を刈り取った。
「お前だからな」
ヒューズは再び目を閉じた。
「じゃなかったら任せねぇよ」
「そうか。私もここまで信用されたか」
会話はそこで途切れた。
問題なく剃り上げていき、あとは片頬だけだった。
刃についたクリームを拭い、ヒューズの顎を掴むと、彼は頭を傾けて、手首の内側に尖らせた唇を押し付けた。リップ音が弾む。
「あとで借りを返す。期待してろ」
流し目のあと、目尻を柔らかく細め、ヒューズは喉の奥で笑った。喉仏の横で、昨晩付けた歯型が痣になっていた。
古傷だらけの身体に証を残してやりたいと思い、衝動的に咬みついてしまったが、こうして見るといい首輪だ。
自由を愛する野良犬を誰かにくれてやるつもりはない。私のものだ。
剃刀の刃がカーテンの隙間から射る日差しを吸って、鋭くきらめいた。