襟尾×津詰

 

 冬の夜の澄んだ空気を肺一杯に吸い込んで吐き出すと、白い息が夜気に立ち昇った。
 さすがに一月にもなると夜はめっきり冷える。そういえば、夕方の天気予報では、今夜から明日にかけては今季一番の冷え込みになると言っていたっけ。
 駅から警察署に向けて歩いている間、課に設けられた古びたテレビでぼんやりと観ていた天気予報を思い出していると、隣でボスが盛大にくしゃみをした。
「今夜は冷えるな」鼻を啜り、ボスは険しい顔をした。
「今季一番の寒さになるって天気予報で言ってましたからね」
 コートを着込んでいても堪える寒さだった。こうも寒いと温かいコーヒーが恋しくなる。帰ったら捜査資料を纏めなくてはいけないが、その前にコーヒーを飲む時間はあるだろう。
 北風が吹いて、足を止めて揃って首を竦める。「寒っ」肺腑に残っていた体温混じりの息が漏れた。
「エリオ、お前さん頬が真っ赤じゃねえか」
「ボスこそ鼻が赤いですよ。寒いと鼻が赤くなるタイプなんですね」
 顔を見合わせると、ボスは微苦笑して首のうしろを掻いて「まあな」唇を突き出した。「あんまり寒いとこうなる」
「早く戻って、コーヒーを飲みましょう」
 すぐそばで街灯が弱々しく明滅する。アスファルトに張り付いていた影が傾いて、ふとおもむろに視線を上げる。
 乱立するビルの間から丸い月が見えた。
 紺碧の空に引っ掛かる冷涼とした満月は、唯一無二の黄金の輝きを放って地上を照らしている。最近空を見上げたことはなかったが、月というのは、こんなにも美しいものだっただろうか。
「ボス」
「ん?」
 先に歩き出していたボスは再び足を止めて振り返った。
「見てください」
 吐息を弾ませて、空に向けて指を向ける。
「月がきれいですよ」
 指の先を追うようにボスが顔を巡らせる。
「おお、立派な満月だな」
 歩み寄って隣に並んで、視線を月からボスに移す。煌々とした月明かりにうっすらと照らし出された相貌には、歳を重ねてきた男にしか出せない、苦味走った渋い色気があった。穏やかさの中に峻厳の影すら漂う横顔に思わず見惚れてしまう。
「空なんて、しばらく見てなかったぜ」
 ボスはオレの方へ顔を向けて口の端を緩めた。サングラスのレンズ越しに視線が交わる。途端に、胸に留めていた想いが込み上げた。
 それは尊敬してやまない上司に向けるには大き過ぎる親愛だった。隣に立つただひとりの男にひっそりと向けている純粋な好意は、本来ならば同性に向けるべきではない感情であることはわかっている。
 それでも、オレはこの人のことを……。
「……っ」
 理性を総動員させて、喉元まで迫り上がった言葉を飲み込んで歯を食い縛り、鼻息をついてもう一度月を見やる。
「今夜は、月がきれいですね」
 かの文豪が残した言葉を吐き出して、笑ってみせる。ボスの目尻のシワが深くなった。
 胸に渦巻く情熱は、膨らんだ親愛の端に火をつけた。
 いつか絶対に、今度はストレートにこの想いを伝えたい――。
 月明かりの下で固く決意して拳を強く握り、冬の夜の街に重々しい一歩を踏み出した。