老犬の切望

――ああ、また掻きむしってやがる。

 それを見た時、髭を剃るために洗面台の鏡に映る虚像を凝眸するのと同じく、目を離すことができなかった。

 コースティックに左の首の側面を掻きむしる癖があるのに気付いたのは、関係を持ってすぐのことだった。

 たとえば考えごとをしている時、たとえば論文の進捗がよくない時、たとえば手持ち無沙汰の時……他にも色々な場面で彼は首を掻く。

 今も、示指と中指の爪の先で引っ掻いている。

「そんな掻きむしったら血が出るぞ」

 そう言ってようやく、彼は手を止めた。それから弾かれたように左手を見て顔をしかめた。どうやら無意識だったらしい。

 色の白い首元を、赤い筋が一本横切っていた。

「痕になってるじゃねぇか。ひどくなる前に唾でもつけとけ」

「放っておけばいずれ消える。問題ない」

「お前の悪い癖だよなぁ」

「昔からの癖だ」

 コースティックは太い首を摩り、鼻を鳴らした。

「風呂に入ってくる」

「おう。行ってこい」

 間もなくして、バスルームからシャワーの音が聞こえてきた。浅いといえども、首の傷は沁みるかもしれない。

 風呂から出てきたコースティックの上気した首元――本人は知らないようだが、体温が上がると、彼の肌はほんのりと血の気が差す。その様は扇情的で魅惑的だ――に視線を何気なくやると、バスローブの襟元から、まだうっすらと残っている引っ掻き傷が見えた。

 情事の際にマーキングとしてつける鬱血の痕とも咬み痕とも違う細い傷跡は、まぎれもなく彼自身がつけたものだ。

 色の白い肌に走る赤い傷に触れてみたいと思った途端、腹の底で手に負えない劣情の導火線に火がついてしまった。

「ミハイル」

 名前を呼び、距離を詰めた。頭を傾けて傷跡へ唇を寄せる。バスローブの襟元が湿っていた。彼が使っているシャンプーの香りが鼻先を擽る。

 浮かび上がった傷痕に口付けても、コースティックは動かなかった。

「傷ってのは誇りを持って見せびらかすものだが、その傷はまずいぜ。……咬み付きたくなる」

 色を含んだ切望を口にすると、コースティックは目尻を細めて、喉の奥から乾いた笑い声を漏らした。

「なら、咬み付いてみるか?」

 挑発的な一言だった。コースティックのエメラルドグリーンの眸に、潜熱の巨影が横切るのを見逃さなかった。彼からの誘いはたまらない。

「俺はしつけのなってねぇ老犬だぜ、ご主人サマ」

「私がしつけてやるとも」

 肉厚な手に顎を掴まれる。駆り立てられる情欲のままに、柔らかくあたたかい掌に頬を押し付けて、舌なめずりをする。

「ワンワンとでも鳴いておこうか」

「しつけ甲斐がありそうだな」

 コースティックの眸に一握の嗜虐心が浮上する。

 もちろんしつけられるつもりはない。それに、ベッドではどちらがしつけているのかわからなくなる。

 身体に残る古傷のような、馴染みのある夜が訪れようとしている。