甘いのは菓子か

「いい匂いがする」
 火の傍で横になっていたヒルビリーが勢いよく起き上がった。
「マジだ。なんの匂いだ?」
「焼きたてのパン?」
 薪を抱えて戻ってきたフランクとスージーが匂いの元を辿ろうと仮面の下で鼻をひくつかせて顔を左右に動かす。そのうしろで、少し遅れて匂いに気が付いたアナが斧を肩に担いだままうっとりしている。
 ぬるい風が吹いて、霧の奥で細いシルエットがふたつ揺れて、アディリスとサリーが現れた。
 アディリスの両手には匂いの元である料理を載せた大きな白磁の皿が、サリーの両手には洒落た模様の入った皿が重なり、一番上にはフォークが何本も寝ている。これらはサリーがエンティティに褒美としてもらった食器だ。
「メルスを焼いた。食べないか?」
「メルス?」
 みなの視線はアディリスの皿に乗った料理に集中した。
「アディリスがエンティティから食材をいただいたから、みんなで食べようって焼いてくれたのよ。古代のお菓子ですって。パンケーキみたいで美味しいわよ」
「パンケーキ? 食べたい!」
 一番に声を上げたのはスージーだった。
「パンケーキってなに?」
「パンケーキ?」
 首を傾げたヒルビリーとアナに、間髪入れずにフランクが「甘いパン? っての? たまに食うとうまいやつ」と返した。
「私の時代のものだ。お前たちの時代のものとは違うかもしれないが、たくさん焼いたからみなで食べてくれると嬉しい」
 アディリスは控えめに微笑んで、切り株に皿を置いた。焚火に照らされたメルスは歪ながら丸く、少し厚みがあって、表面の焼き色に似つかわしい香りを放っている。
「エヴァンとフィリップが他のみんなを呼んでくれているから、久し振りにご馳走をいただきましょう」
「いいにおーい! アディリス、これは中になにがはいってるの?」
「具材は主に林檎と干し葡萄だ。他にもナッツ類や香辛料も入っている。蜂蜜を多めに入れたから甘いぞ」
「超美味しそう!」
 余った袖の先からカラフルな爪を覗かせて、スージーは嬉しそうに言った。

 

「他の奴らを呼んできたぞ。あとは儀式からハーマンが戻れば全員揃う」
 エヴァンが闇夜を裂いて火の傍にやってきた。彼のあとに続いて、霧の中でぼんやりといくつもの影が浮かぶ。
 世話焼きのサリーが切り分けたメルスを皿に載せ、それをアディリスが配っていく。
 重なっていた皿の山がなくなって「あら、大変、私ったら」とサリーは頬に手を添えた。「ハーマンの分を分けておこうと思ったのに、この間一枚割ってしまったから足りないのを忘れてたわ」
「カーターの皿がないのか」
「ごめんなさいアディリス、私の皿にはまだ手を付けてないから、それをあげてくれる? 彼きっとお腹を空かせて帰ってくるだろうから。私は残ったものを大皿から直接いただくわね」
 アディリスが口を開こうとした時、ふたりの傍で丸太に腰掛けていたスージーが、はっとしたようにアディリスを見詰めてフォークを力強く握って立ち上がった。
「アディリス! これはチャンスだよ」
 

 儀式から戻ると、焚火のそばは賑やかで、朗らかな雰囲気が漂っていた。
「おかえりカーター」
「アディリスが美味しいパンケーキを焼いてくれたよ」
 フォークを咥えたフィリップと頬を膨らませて喋るヒルビリーに出迎えられ、身体の中で燻ぶっていた血腥い興奮が冷めた。
 歩きながら瞼と唇を固定していた器具を外し、視線でアディリスを探す。解放された顔の筋肉がぴくぴくと引き攣った。
「カーター」
 うしろから名前を呼ばれてゆっくりと振り返る。
 アディリスだった。胸の前まで上がった手には例のパンケーキを載せた皿――パウンドケーキに見える。褐色の生地の断面には大きめの果肉が並んでいる――と、いつも吊り香炉を下げている手には、小さなフォークがあった。
「君がみなに馳走を振る舞ったと聞きました」
「馳走というほどでもないが、あなたにも食べてもらいたい」
「これは……ああそうか、メルスか。以前話してくれましたね」
「覚えていてくれたのか。その……あなたの口に合うといいのだが……」
 語尾が弱々しくなった。彼女らしくない。
「アディリス?」
「く、口を開けてくれ」
 フォークで一口サイズに切り分けられた生地が口元に運ばれる。アディリスの手は震えている。
「食べさせてくれるんですか?」
 彼女は唇を引き結んで顎を引いた。ヴェールの向こうに見える白い片頬がほんのり赤く見えるのは、自惚だろうか。それとも、火の加減のせいだろうか。
 頭を傾けて、ほんのりとフルーティーな香りを漂わせるメルスを頬張る。硬めの生地には細かく砕かれたピスタチオが混じっていた。噛み締めると、素朴ながらしっかりとした蜂蜜の甘さが鼻に抜けた。それから、スパイスの心地よい刺激。味のバランスがいい。
「美味い」
「ほんとうか? それはよかった」
「また一口もらっても?」
「もちろんだ」
 安堵したように微笑むアディリスの腰を抱き寄せると、すぐそばで始終こちらを見ていたらしいエヴァンとフレディが「おいハーマン!」「帰ってきて早々見せ付けるなよな!」抗議の声を上げた。
 その隣では、スージーが黄色い悲鳴を上げていた。