情熱と執着のあいだ

 寝室の燈を付けた時、インターホンが鳴った。

 咄嗟にナイトテーブルの置時計を見る。時刻は午後十一時を過ぎていた。

 こんな時間に一体誰だと訝しみ、寝衣の裾を翻す。

 暗い居間に戻って照明のスイッチを手探りで付けて、カメラモニターを確認すると、そこにはヒューズが映っていた。

 拍子抜けして目を瞬せていると、チャイムの次に荒っぽいノック音が聞こえてきた。

 大股で玄関に向かい、ノックを遮るようにドアを開けた。冷えた夜気が頬を撫でる。

「よぉ、こんな時間にすまねぇな」

「なんの用だ」

 ヒューズは肩をすくめた。

「用なんかねぇ。ひとりの夜が寂しくてな」

「そんな理由でわざわざ私の元に来たのか」

「老犬の帰巣本能ってやつかもな、ハハハ」

「なら私の家ではなく自分の寝床に帰れ、野良犬め。私はちょうど寝るところだったんだぞ」

「冗談だ。会いたくて来ちまった。今夜はお前の隣で寝たい。入れてくれよ、ミーシャ」

 囁きには期待がこもっていた。室内から漏れる燈の加減のせいか、ヒューズの隻眼が潤んでいるように見えた。

 大きく溜息をひとつ零して、こめかみを掻く。

「……入れ」

 結局、追い返せずに尻尾を振る老犬を招き入れた。

 寝室に入るなり、衣服を脱ぎ捨てて下着姿になったヒューズに、ガウンを貸してやった。

 彼はサイズの合っていないガウンを着て大雑把に帯を結ぶとすぐにベッドに入った。

 ヒューズの隣でヘッドボードに寄り掛かり、ランプの燈を消すためにナイトテーブルに手を伸ばす。

「待った、寝る前にキスしてくれよ」

 手を止めて意識をヒューズの方へ戻すと、すぐそばで目が合った。答える前に頬にかさついた指が触れ、唇を塞がれた。鼻先が触れる距離で視線を交わした一刹那、ヒューズは吐息で笑った。

「キスだけじゃ物足りなくなっちまった」

 また唇が触れた。のしかかってくるヒューズを抱き留めると、下唇を軽く咬まれ、吸われ、舌が遠慮がちに隙間に差し込まれた。どうやら、彼の情欲の導火線に火がついてしまったらしい。

「ミハイル……」

 切なさを孕んだ囁きだった。セックスをしたい時の合図(スキンシップ)に応じれば、このまま肌を重ねることになる。

 突き放すこともできたが、相手をしてやってもいいと思った。

 浅く舌を差し出すと、すぐに先端がぶつかって潰れた。首のうしろに手が回る。息を継ぎながら深い場所で舌を交えていると、衣擦れの音が耳朶を打った。

 唾液の糸が間で途切れ、起き上がったヒューズの腕が枕元で突っ張って、見慣れた天井が彼の翳るシルエットに塗り潰された。寝衣の帯がほどかれ、隙間にヒューズの手が差し込まれた。前が大きくはだけ、癖の付いた胸毛が茂った胸部が露わになる。

「美しい眺めだ」

 ヒューズは腹に跨って、ゆっくりと被さってきた。彼の方が身長が低いので、胸部に顔がくる体勢になる。脂肪ののった胸部を揉みしだかれ、乳首を摘ままれた。

「お前って乳でかいよなぁ」

 左右から胸部を押し上げられ、寄った脂肪と胸毛が中央でたゆんだ。その間に鼻面を埋めて、ヒューズは眉間に皺を刻んで目を閉じた。

「んー、最高の気分だ」

「下りろ」

「いいじゃねぇかちょっとくらい。このまま一発ヤるんだからよ」

 顔を上げたヒューズと目が合った。髭面の壮年のくせに、皺の少ない顔は少年のように血色がよく朗らかで、眸は生き生きとしている。

 唇を引き結んで顔を逸らすと、視界の端でヒューズが動いた。

 尖った胸の先を甘咬みされた。胸元から腹まで伝播するじくじくとした疼きに、緩んでいた快楽の糸が張る。ヒューズのせいで、今では胸部までもが性感帯だ。

 唇が胸元から腹に滑り、ヒューズの頭が足の付け根に移動した。穿いている下着越しに股座を撫でられる。

 視軸を下肢にずらすと、ヒューズの指が下着の縁に引っかかっていた。そのまま引き下ろされ、濃い下毛と萎えた性器がまろび出る。

「脱がしてやるから腰上げろ」

 言われるがままに腰を浮かせる。脱がされた下着はベッドから放り出された。

「ここもご立派だ」

 白い指が性器を掬い取る。

 亀頭の側面に軽く口付けると、ヒューズは赤い舌を張った雁首に絡め、器用に舐め回した。唾液を全体にまぶしながら丹念に舐め上げられる。根本にある薄い肉膜の内側に並んだ睾丸を吸われた時はさすがに唸った。

 頬の内側で扱かれ、舌で詰られるうちに血流が性急に下半身に向かうのを感じた。男同士というのもあって、感度の高い部分をわかっているのだろう、そういうところを容赦なく責められた。

 ふてぶてしい性器が勃起するのに時間はかからなかった。

「……ッ」

 眉を寄せて顎を固くさせる。

「お前のその「耐えてます」って顔、好きだぜ。エロくていい」

 上唇を舌先でなぞって、彼は目尻を細めた。張りのある目元にできた皺は浅い。

「焦らそうかと思ったが、やめだ」

 ヒューズは吐息で囁くと、勃ち上がったものを指の輪で支えたまま、もったいぶったように尖らせた唇を先端に押し当てた。

「イかせてやる」

 リップ音のあと、肉色の幹を根本まで咥えられた。狭まった喉の奥でペニスが擦れ、漏れた空気と唾液が混ざり合って粘ついた音を立てる。

 粘度の高い摩擦は続き、あたたかく柔らかい粘膜に四方から隙間なく包まれ、不意に腹の底が熱くなった。

「ッ、う……!」

 堪え難い法悦(エクスタシー)に、たまらずヒューズの頭を引き離そうと額を押しやるが、間に合わずにそのまま達してしまった。

 ヒューズは精液を最後の一滴まで絞り取ろうとするように、強く吸いながら頭を引いた。ほめく亀頭を吸われる強烈な刺激に腰が砕けそうになった。

 頭を上げたヒューズの喉仏が上下している。口の端から白い滴が伝い落ちていた。彼は親指の腹で口元を拭うと、見せ付けるように舐め取った。

「よく、飲めたものだな」

 淫靡な仕草を見据えて深く息を吐き出す。

「お前だって俺の出したモンを飲むだろ。飲んでくれとは言ってねぇのによ」

「…………!」

 かぁっと顔が熱くなった。慣れないフェラチオのあとのことなど覚えていないが、言われてみればそうだったかもしれない。なぜ、律儀にも零さずに飲み込んでいたのだろう。

「俺の精液(ザーメン)の味はどうだった?」

「……貴様ッ……!」

 ほぼ反射的にヒューズの横っ面を殴ろうとしたが、目にも止まらぬ速さで手首を掴まれて届かなかった。

「ちょっとからかっただけじゃねぇか。ウブだなぁ、お前は。そういうところ、可愛いぜ」

 彼はにやりと笑った。

「さて、と」

 ヒューズはさも当たり前のようにナイトテーブルの方へ身を乗り出して、二段目の抽斗から潤滑剤(ローション)のボトルとスキンを箱ごと取り出した。

「こっちもたっぷり可愛がってやらないとな」

 ヒューズの身体が足の間に割り入った。彼のガウンの帯は解けていて、肌が剥き出しになっていた。

 とろみのある潤滑剤がボトルからヒューズの掌に滴るのを見据えていると、羞恥心が身体を火照らせた。

 彼を受け容れ慣れた肛門に、人肌にあたたまった潤滑剤で濡れた中指が宛がわれる。

「……ぅッ、……!」

 指はゆっくりと潜り込んだ。

 浅い場所で、ヒューズの指が慣れたように狭い肉壁を押し広げていく。指はみっちりと詰まった肉の間を確実に割っていった。

「あッ、う……」

 異物を拒む括約筋は時間を掛けてほぐされていく。体内を行き来していた指が二本に増え、奥で鉤型に曲がるころには息が上がり、中指と環指だけでは物足りなくなっていた。

「物足りねぇだろ?」

 図星だった。

 一気に指を引き抜かれると、太腿の筋肉が小刻みに痙攣した。

「挿れてほしそうにひくついてる」

「いちいち品のないことを言ってくれるな」

「内側から捲れてケツの孔がぷっくり膨れてますって言えばいいのか?」

「……黙ってくれ」

 喉から出たのは掠れた声だった。

「そう照れんなよ」

 ヒューズはスキンを手に取り、封を切った。彼の股間では、男の本能が下着の薄い生地を持ち上げていた。

 彼がガウンと下着を脱ぎ捨ててスキンを装着している間、ぼんやりとした頭のまま、呆けたように天井を見詰めた。寝室の白い天井など見慣れているはずなのに、この時だけは知らないものに思える。

 膝裏を掴まれ、シーツを掻いていた足が浮き、つま先が天井を向いた。

「挿れるぞ。力抜いてろ」

 ヒューズが腰を突き出した。硬い肉杭が肉の門を抉じ開けていく。

「ぐッ……!」

 挿入時の圧迫感にはいまだ慣れない。

「……う、ぐぅ……」

 喉が反った。食い縛った歯の隙間から鋭い呼気が漏れる。

「ほら、深呼吸、深呼吸」

「……ッ、ふッ……は、ぁッ……」

 飄々としているヒューズに苛立ちながら、短い間隔で呼吸を繰り返した。圧倒的な熱量が腹に捩じ込まれているのに、痛みはほとんどない。

 呼吸が落ち着き、被さったヒューズの腰が動きはじめて、動きにあわせて今度は太い声が腹の底から押し出された。血の通った肉と肉の抜き差しは、排泄という原始的な脱力感に似ているが、声を抑えきれないほど気持ちがよかった。

 シーツを掴んでいた手で必死にヒューズの背中にしがみつくと、肢体が絡み合った。壁に貼り付いた影は、まるで夜の闇に横たわる一頭の獣だ。

「ぐ、ぅ……ウォルター……」

 苦し気に名前を呼ぶと、唇を塞がれた。吐息を弾ませ、夢中で舌を貪った。生理的な涙が湧き、視界がぼやけてヒューズの表情はわからなかった。

「そんな声で呼ばれたらイきそうになっちまうだろ」

 下肢ではヒューズの腰だけが動いていた。ぬち、ぬち、ぱちゅん、ぱちゅん、と濡れた粘膜同士がぶつかって生々しい音を立てている。腹の内側で熱く渦巻く掴みどころのないそれを掻き集めようと、身体はヒューズを求めている。

「締め付けて離さねぇ。そんなに俺のナニがいいか?」

「……う……だま、れ……。く……ぁ!」

「ここが好きだよなぁ、お前は」

 一点を責めるような腰使いに、情けない声が漏れた。目を閉じると、瞼の裏を赤色や緑色の影がいくつも通り過ぎていった。

 理性は押し寄せる怒涛に呑まれ、羞恥心が神経を削り取っていく。男同士の非生産的な行為に夢中になっている肉体は、ヒューズの本能に喜んでむしゃぶりついている。

 泣き所を責める抽迭は勢いを増した。ヒューズは甘く疼く腹の内側を満たしていく。ぶつかるたびに潤滑剤の滴が飛び散り、彼の顎の先からは汗が滴る。

「まったく……気持ちよすぎるぜ」

 挿入された性器が抜け落ちるぎりぎりのところまで引いた腰がゆっくりと前後した。出っ張った雁首に、縁の敏感な部分を削るように擦られた。切なさに似たもどかしさを感じて歯を食い縛る。そこもたまらないが、もっと奥を突いてほしかった。

「……焦らすな」

「あん? どうしてほしいんだ?」

 息も絶え絶えに呟くと、ヒューズはわざとらしく言った。

「くッ……ぅ、いちいち、言わせるな」

「わかってる。奥がいいんだろ?」

 腹の奥が熱くなり、結合部がどちゅん、と激しく鳴った。体内の奥にある粘膜の窄まりを挽き潰すような一突きに総身が大きく引き攣る。股座が密着して、ぐりぐりと腰を押し付けられた。

「まッ、待て、そこは――」

「おあずけはナシだぜ」

「……あ……!」

 瞠目すると、生あたたかい涙が目尻から伝い落ちていった。

「お……ッ、ぅ、~~~~~~~~ッ!」

 脊背が反り、息が詰まった。強烈な痺れが拓かれた腹の内側を塗り潰していく。小さな(オルガスム)()に支配された肉体は不随意に硬直と弛緩を繰り返した。ヒューズが撃つナックルクラスターのように意識の火花が散る。

 果てたあとも責め立てられた。快楽というものは、受け容れすぎると苦痛に変わる。ヒューズの腕の下で息ができないほど悶えた。気持ちがいいのに苦しい。この苦しみから逃れる術を知らない。ヒューズの背中に回した手に力を込め、呼吸を繰り返すだけで精一杯だった。

 ヒューズの形に慣らされて性器に成り下がった肉壁は、貪欲なまでに収斂を繰り返す。

「……はぁ、はッ、ミハイルッ……悪ィな、限界だ」

 両膝を掴まれた。

 ヒューズが身を乗り上げる。

「ぁ、あ、ああぁ……!」

 ラストスパートをかけた腰使いは激しいが、嫌いではない。でっぷりと脂肪ののった胸部がみっともなく揺れた。

「……ッ、クソッ、出ちまう……ッ」

 スムーズに短いストロークを重ねていたヒューズの腰が止まった。

 彼は奥深くで絶頂を迎えたあと、スキンのわずかな隔たりにも構わず、子種を腹の内側に撒くように腰を揺すった。

「……ミハイル」

 強く抱かれ、腕がもつれあった。触れた肌が熱い。耳元で紡がれるヒューズの熱情を含んだ呼び声が肉体に染み渡る。

 彼から与えられる見返りを求めない親愛が胸の内側で爆発して、絆されてしまいそうになった。

 ふと、はじめて身体を許した夜のことを思い出した。

 あの晩も、こんな風に熱っぽく偽名(ファーストネーム)を呼ばれた。

「もう一度、呼んでくれ」

「何度だって呼んでやるよ。……ミハイル」

「お前に名を呼ばれて心地良さを感じるほどに、私は今高揚している」

「そりゃあ、俺のことが好きだからだろ」

「自惚れるな」

「自惚れたっていいじゃねぇか」

「……そちらの方がお前らしいか」

「俺とお前はほんとうに相性がいい。身体だけじゃねぇ。似通ってるところがあるからかもしれねぇな」

「私とお前は違う。破壊と死は一蓮托生だが、お前は生命破壊を好んでいるわけではないだろう? 私は有象無象の生命活動の終わりを記録したいのだ。死という蒼古的で甘美なものを私は求めている。壊すだけのお前と違ってな」

「……どうかな。俺ぁ悪党だぜ」

 ねっとりとした間のあと、互いに喉を震わせて笑った。ヒューズはそれはそれは嬉しそうに笑った。

 ああそうだ。老犬は死のにおいに慣れている。

 無聊を嫌い、破壊を好む刹那的な快楽主義者である彼は、自身の愉悦のためなら喜んで死神と踊り、手を汚すことを厭わず、血腥い道を進み、築き上げた死体の山の頂上に腰掛けて混沌を眺望する男だ。

 破天荒かと思いきや、合理的で、時に残酷な選択ができる現実主義者でもある。母星で幼いころから理不尽な死に触れて育ち、屍山血河の歴史に名を刻んだ傭兵は、生がいかに泡影であるかを知っている。死だけが万人に与えられる平等であることも、死の息吹に触れてはじめて実感する生の価値も知っている。

 遅かれ早かれ、死こそが人間の終着点であることをヒューズは魂で理解している。だが、死ねばそこで終わりではなく、死後にも意思は生き延びることがあると――人はそれを生き様と呼ぶのだと彼は言った。

 実に興味深かった。誰からも理解されたことがない生死に対する見解が一致したのは、人生において、この男がはじめてだった。

 素直に感興をそそられ、隣にいることを許した。

 ヒューズが隣にいることが当たり前となった或る雨の降り続く晩に好意を打ち明けられた。彼も私にいたく興味を持っていた。

――俺はお前が欲しい。本気だ。

 あの時のヒューズの低く芯の通った声音は忘れられない。不思議なことに、求められても不快感はなかった。好奇心を独占する未知なる存在を誰にも渡したくなかったからかもしれない。

 あの晩から、ヒューズに対する執着が胸にこびりついている。

「ウォルター・フィッツロイ」

 彼の隆起した肩甲骨の間に指を引っかけ、両手の爪を立てた。

「私を見ろ」

 鋼鉄の指先がぎしりと軋んで薄い肉に食い込んでいく。

「私だけを見ろ」

 上と下で視線がぶつかる。甘い情熱を宿したヒューズの眸に、剥き出しになった執着心が映っていた。

「お前は俺のことが大好きだなぁ。そんなこと言わなくても、俺はお前しか見えてねぇさ」

 背中にあった片手を剥がされ、指が互い違いに交わってシーツに落ち、しっかりと握られた。

「お前は俺の最後の相手だ」

 迸る情熱と利己的な執着が結合して生まれたヒューズとの関係性は、複雑な構造式のようだ。この関係はこれからも続いていくだろう。

 誰かと唯一無二の関係を持つのは、最初で最後だ。

「お前は私のものだ」

 身体にこもった甘ったるい熱を吐き出して、ヒューズの武骨な指を握り返し、ふたりで深い夜に身を委ねることにした。