「ほら、ガキんちょはこれで我慢しな」
目の前に置かれた使い古された鈍い銀色のゴブレットには、ミルクがなみなみと入っていた。ゴブレットの淵の内側の白い溜まりをにらんでから、カウンターの向こうでにやにやと笑っている酒場の店主を半眼で見やる。
「またミルクかよ」
「おうともさ。ガキんちょにはそれで十分だ」
「ガキ扱いしないでくれよ。俺は十歳だぞ」
「ハッ、まだガキだよ。ほら、オイゲンのとこにいってこい」
反駁はあしらわれ、むっとしたまま、床に足の届かない椅子から降り、ゴブレットに手を伸ばした。
ゴブレットを両手で持ち、振り返って、煙草と酒のにおいが充満した店内を見回した。
仲間たちとテーブルを囲うオイゲンを見付けて、足早にそちらへ向かう。大人の輪の中に入るのは好きだ。たとえ飲んでいるのがミルクでも。
「おう、ラカム、ミルクもらってきたか」
ソファにふんぞり返ったオイゲンの両隣の席はおろか、どこにも椅子に空きはない。そういう時は、オイゲンの片膝に座るか、足の間にちょこんと腰掛けることにしている。
団員たちは身体を捻ったり足を開いたりして、自然と道を開けてくれた。
ミルク入りのゴブレットを慎重に持って狭い隙間を縫うように通り抜けて、当然のように、オイゲンの太ももに腰を下ろした。オイゲンの足は硬くて、座り心地はあまりよくないが、どんな椅子よりも落ち着いた。背中を厚い胸に預けると頭を撫でてもらえるのも嬉しかった。
「ラカムはオイゲンにべったりだなぁ。甘えたい盛りかぁ」
仲間のひとりが言った。
「そりゃあオメエ、一応師匠みてぇなもんだもんよ、なつくだろ」
他の団員が言う。
「オイゲンが師匠ねぇ」
誰かが言った。
どっと笑いが起きた。
「おいおいなんだよお前ら、本人が目の前にいるってのによ、ひでぇこと言いやがって。なぁラカム、お前は俺のことをどう思ってんだ?」
顔を上げると、オイゲンの深い緑色をした隻眼が期待で輝いていた。銜えた煙草の先から、紫煙が一筋天井に向けて伸びている。
「うーんと……」
テーブルを囲む皆の視線が集中した。急にこっぱずかしくなって、誤魔化すように、ごくごくとミルクを半分ほど飲んだ。ぷはっと息をはいて、上唇についたミルクを舌で拭う。
「で? どうだ?」
「俺は、オイゲンのおっさんのこと……」
一瞬の空白のあと、見慣れた自室の天井が見えた。どうやら、夢を見ていたらしい。
鼻から気だるい空気を吸い込んで、前髪を掻き上げて、瞬きを繰り返す。昼寝をしていたことを思い出した。
ぼんやりした頭のままのろのろと起き上がって、サイドテーブルに置いた煙草の箱に手を伸ばす。一本銜えて、ライターを手繰り寄せ、火を付けて煙をはき出すと、意識は完全に覚醒した。
夢を見た。いや、夢というよりも、記憶なのかもしれない。わからない。あのあと、自分はなんて答えたんだろう? たかが夢、されど夢。けれど続きが気になって仕方ない。
(……らしくねぇな)
灰皿に煙草の火口を押し付ける。
無性にオイゲンに会いたくなって、部屋を出た。
船尾でオイゲンの背中を見付けて歩み寄った。そばにはイングヴェイがいたが、こちらに気付くとにやりと笑って、ひらりと手を振って離れていった。
オイゲンが振り返った。目が合うと、オイゲンは白い歯を見せて笑った。「おーラカム。ちょうどオメエさんの話をしてたんだ」
「え? イングヴェイと? 俺の?」
「なぁに、昔話をちっとな」
日に焼けた顔をほころばせ、意味ありげに、オイゲンは肩を竦めた。
「そうだ、今から俺の部屋で飲まねぇか、付き合えよ」
肩に載ったオイゲンの手は、グローブ越しでも、今でも大きく感じられた。
「なんか話したいことがあるって面だな」
赤ワインの入ったデカンタの中身がもうすぐなくなる頃、テーブルの向かいでオイゲンが言った。まるで独り言のような、そんな口調だった。
「わかるのか?」
「目を見りゃわかる」
オイゲンは木製のゴブレットを口元に引き寄せ、残り少ないのか、頭を反らして中身を呷った。突出した喉仏が大きく上下するのを見ながら話すべきか悩んだが、ややあって口を開いた。
「夢を見たんだ」
「夢? どんな?」
「俺が十の時、バルツ公国に連れてってくれただろ?」
「そんなこともあったな」
俯きがちにデカンタに手を伸ばし、オイゲンは視線だけでこちらを見た。目が合って、続きを話そうと浅く息を吸う。
「その時の夢……夢って言うより記憶に近いと思うけど、若い頃のアンタと騎空団の仲間たちと酒場で盛り上がってたんだ。俺が甘えたい盛りだの、オイゲンにべったりだの、そんな話題だ。そんでアンタが俺に訊いたんだ。「俺のことをどう思ってんだ?」って。で、答える前に目が覚めた」
一瞬視軸を下げる。傾いたデカンタの中身がゴブレットに落ちていく。これが最後の一杯だ。視軸を戻すと、オイゲンの視線は、いつのまにかゴブレットに向いていた。
「あー、わけわかんねぇこと言っちまったな、悪ィ、忘れてくれ」
「ずいぶんと懐かしいことを覚えてるんだな。俺が師匠だっつったら、周りのヤツら笑ってたろ」
「アンタ、覚えてるのか?」
「ああ」オイゲンはグローブを外し、重ねてソファの端に投げた。
「俺が答えたことも?」
「覚えてるぜぇ。でも、聞かねぇ方がいいかもしれねぇぞ」
「いや、聞きたい」
「酒が足りねぇな」ワインで満たしたゴブレットの中を覗き込んで、オイゲンは呟いた。
「……は?」
「いやぁ、あとこれだけじゃ飲み足りねぇなって」
オイゲンは物欲しそうな顔でこちらを見た。
「……わーったよ、この前アンタが置いてったウイスキーが俺の部屋にあるから、取ってくる」
「どこにもねぇと思ったらラカムの部屋にあったのか。悪ィな」
目尻の皺を深くさせて、オイゲンは笑った。食えない男だと、思わず苦笑する。
ウイスキーのボトルを持ってオイゲンの部屋に戻る時には、早足になっていた。
「で?」
「あ? ……で、って?」
「勘弁してくれよ、さっきの! 話の! 続き!」
「あー、ハイハイ、さっきのな」
ウイスキーを空になったゴブレットに注ぎながら、すっとぼけた顔でオイゲンは言った。溜息が出そうになる。
「そんな顔するなって、可愛い冗談じゃねぇか。話してやるよ。けど、聞いて後悔すんなよ」
「後悔なんてしねぇよ。聞かせてくれ」
オイゲンは咳ばらいをひとつした。
「好きだって言ったんだ」
「……え?」
「俺のことを、ガキの頃のオメエは「好きだ」って言ったんだ」
「………………」
思考が止まった。銜えた煙草の先で火口が瞬く。
灰が落ちそうになってようやく、弾かれたように灰皿まで手を伸ばした。軸を指先で叩く前に、灰が崩れ落ちた。
「でもよぉ、オイゲン、俺は」
「いいから最後まで聞けって。な?」
オイゲンはずいっと身を乗り出して、人差し指を唇に宛てがってきた。出かかった言葉は、喉の奥に落ちていった。
「そんで」オイゲンはどっかりとソファに座った。「嬉しくて「俺も好きだぜ」って返したら周りがまた大笑いしやがったんで、オメエさんは半べそ掻いて店を飛び出してった」
「ばッ……馬鹿じゃねぇの、アンタも「好きだ」なんて答えたのか? 冗談だよな?」
「冗談なんかじゃねえ、俺は正直に答えたんだ。それでも周りは笑いやがった」
「……そう、だったのか」
覚えているような、いないような。苦い思いが胸に込み上げてきた。それを煙草の煙といっしょに天井に向けて吹き上げ、灰皿に煙草を押し付けた。
「あんま、いい思い出じゃねぇだろ」
「……そうだな。でもまぁ―――」
曖昧に言葉を切ると、オイゲンは深い緑色をした隻眼を瞬かせて、言葉の続きを催促するように首を傾げた。
「なんでもねぇ。気にしないでくれ」
頬が緩んだ。それを誤魔化すために、ゴブレットの中のぬるくなったワインを飲み干して、立ち上がる。
「んじゃ俺、そろそろ戻るわ」
「おう、そうかい」
空のゴブレットを片手にオイゲンの部屋を出た。
夢の温度は少し冷たかったが、胸の中は、温かかった。
ひとつだけ、思い出したことがある。
オイゲンのことが好きだという気持ちは、あの頃から、ちっとも変わっていないことを。