あたたかな日が差す或る日、ベンケイに呼ばれておんぼろ屋敷を訪れると、住まう妖怪たちが庭で花見をしていた。飲めや歌えやの大騒ぎだ。おんぼろ屋敷にも春がきたのだと、思わず頬が緩んだ。
「おお、まさむね殿」
名前を呼ばれて振り返ると、ベンケイが一升瓶を片手に浮いていた。声音からして、珍しく彼も浮かれているらしい。
「縁側で待っておれ。貴殿のために用意した銘酒がある。この酒より美味いぞ」手にした一升瓶を持ち上げてからからと笑うベンケイにつられて、思わず頬を崩す。
「では、馳走にあずかるとしよう」
菅傘を脱いで襟巻を外し、縁側に座った。
暫くして、ベンケイは二人分の盃と一升瓶を持って戻ってきた。
「越後に武者修行に行った際に烏天狗からもらってな。月見酒にと思って取っておいたが、花見酒もよいものだな」
とくとくと注がれる酒は日差しを浴びて銀色に輝いているようだった。
漆塗りの盃と盃の淵を重ねた後、揃って一口飲んだ。果実のような馥郁とした甘い香りが鼻に抜ける。柔らかな口当たりだ。
「美味いな」
ベンケイと顔を見合わせ、あたたかな喧噪に包まれる庭を眺めてもう一口呷った時、ふと視線を感じて首を巡らせた。
子狐が一匹、竹藪の中から座り込んでこちらを見ていた。
褐色の毛並みはまだらに差し込む日差しに濡れている。子狐は耳を左右に傾けてじっとしていた。妖怪達のどんちゃん騒ぎを聞いているのだろうか。
「あそこに狐がいるぞ」
「ああ、あれはいたずら好きでな」ベンケイは破顔した。「儂は源九郎狐と呼んでおる。他の妖怪の腹太鼓の音に釣られて来たのかもしれんな」
源九郎狐――どこかで聞いたことがある名前だと、まさむねは思った。彼のことだから、義経に由来するものなのかもしれない。
ひゅるりと風が吹いて、時間が止まったように、風の音以外聞こえなくなった。攫われた花弁が碧空へ舞い上がる。薄桃色の嵐は刹那だったが、美しく、儚く、幻想的だった。まるで幻術のように。
(そうか、千本桜だ……)
まさむねはハッとして、さざめく桜の木から視線を逸らした。
今まで竹藪にいた子狐は消えていた。視線で探してみたが、見付からない。
「ベンケイ、狐が……」
「あれは幻術が得意でな。よく儂に昔のことを見せる」
言葉を遮ったベンケイの声は静かで……深い悲しみが含まれているように感じられた。彼の横顔は険しく、寂寞と虚無が入り混じっていた。
「それは……」
それ以上、まさむねは語を継ぐことができなかった。
聞くのが怖かった。あの子狐は彼になにを見せるのだろう。
彼の生前の出来事か。
彼が主と仰いだ男か。
幻術を見せて慰めているのか。
はたまた、主を護れず殉じた彼を責めているのか。
穏やかな春には似合わない悲劇は、血腥いものであることは想像に難くない。ベンケイの過去に触れてはいけないことはわかっている分、余計につらくなってくる。
今はただ花見を楽しもうと思えば思うほど、喉の奥が灼けるように熱くなった。
まさむねは横目にベンケイを見た後、盃を満たす酒に視線を溜めた。桜の花びらが一枚落ちてきて、波紋を作って浮かんだ。
満開に咲き誇る桜も、風に流離う花びらも見えていないように、ベンケイはずっと、彼方を見詰めていた。