ボタン

 シャツのボタンをすべて留めると、胸元が少しきつかった。

 加齢によって無駄な肉がついたのか、はたまた、鍛え過ぎて筋肉がついたのか――衣装箪笥のドアの内側にある鏡の前で鷹揚とネクタイを締めながらそこはかとなく考えたが、大した問題ではないので、答えはどちらでもよかった。

 腕時計を確認すると、出席する学会まであと三時間ほどだった。ゆっくりとコーヒーを飲む余裕はある。

 上着を持ってキッチンに向かうと、ヒューズが冷蔵庫からビールを取り出していた。

 真っ昼間からよく酒が飲めるものだ。

「待ちな。眼鏡がよく似合ってるが、ネクタイが曲がって男前が台無しだ」

 ヒューズの鋼鉄の指が伸びてきて、ネクタイに触れた。位置を直してもらっている間、彼の首元にぶら下がった横向きの黒曜石のカンガルーを見詰めていた。

「すまない」

「いいってことよ」

「お前にしては珍しく気が利くな」

「俺はいつだって気配り上手さ。……お?」

 冗談のあと、小さく笑っていたヒューズが動きを止めた。

「どうした?」

 ヒューズの視線だけが手元から足元に落ちたのを見逃さなかった。彼に倣って視軸を床に落とすと、小さな白いボタンがふたつ、ふたりの間に落ちていた。

 着ているシャツのボタンだった。

 持ち上がったネクタイの下では、ひし形に開いた前立ての間で、胸毛に覆われた盛り上がった胸部が飛び出していた。

 なにが起きたのか理解できずに、一刹那瞬きだけを繰り返す。

 シャツのボタンが一度にふたつも、しかも音もなく弾け飛ぶことがあるだろうか。

「こりゃあとんだワガママボディだな」

 ヒューズの視線は胸元に釘付けだった。

「……うるさい」

 はじめて聞いたが、今のはおそらく下卑た表現だろう。

 鼻息を吐き、気まずさから顔をしかめていると、ヒューズは剥き出しになった胸部に触れて、こともあろうか撫でてきた。

「相変わらずでけぇなぁ」

 舌打ちをして図々しいヒューズの手をはたき落とす。

「あいてっ」

「触るな」

「こんなデカい乳を見せ付けられちゃ触りたくもなるぜ」

「……シャツを替えてくる」

「ああ、そうした方がいい」

 床に落ちたボタンをそのままに、にやけ面のヒューズの腕から逃れ、キッチンをあとにした。

 コーヒーはまだおあずけだ。