午後五時を告げる鐘の音が神宿学園の校庭に鳴り響いた。
緋色の空にはうっすらと夜の気配が滲んでいた。冬の終わりが近いといえども、まだ寒い。ジャケットのポケットに両手を入れて、マフラーに顔を半分埋めて、冷たい風が吹く誰もいない小等部の校庭を進む。正面玄関から少し横に逸れたところにある花壇に、目的の人物を見付けて頬が緩んだ。広くて大きな背中に、頭の後ろで無造作に結ばれた赤毛混じりの褐色の髪……私の大好きな人。
「ブギーマン先生」
傍で足を止めて、黙々と作業をしている背中に声を掛けると、先生はゆっくりと振り返った。「ああ、君か」目が合うと、先生はふっと笑ってくれた。
「なにを植えてるんですか?」
先生の隣に置かれた空の鉢や育苗ポットに一刹那支線をやって首を傾げる。
「アネモネとヒヤシンスの球根や、何種類か種を植えていたんだ。今ちょうど終わったところでね」土のついた赤いシャベルをバケツの中に入れて、先生はゆっくりと立ち上がった。「春に咲くのが楽しみだよ」
花壇に近付くと、新鮮な土の匂いがした。等間隔に植えられたばかりの球根が可愛らしく頭をのぞかせている。六年生が中等部に上がり、新一年生が新しい制服に身を包んでこの学園の校門を潜る頃には、きっと美しい花が咲いているのだろう。
「土って、いい匂いがしますね」
「土の匂いは私も好きだ」軍手を外した先生は満足そうに吐息をついた。「土だけじゃない。私は花壇という小さな世界が好きなのだよ」こちらに顔を向けた先生の表情は穏やかだ。
「こうして手入れをしていると、多くの昆虫を見かける。蝶やハチ、ミミズ、アリ、甲虫に芋虫……ここは彼らの住処でもあるのだ。花と彼らは助け合って生きている。互いになくてはならない存在だ。私はこの小さな世界で、教師として大切なことを学ばせてもらった」
「へー、花と虫の関係なんて考えたこともなかったけど、すごく深い話を聞きました。さすが先生」
花壇を見下ろす先生の横顔をじっと見詰める。視線に気付いた先生は、弾かれたように私を見て、気恥ずかしそうに笑って頭のうしろを掻いた。
「らしくない話をしたかな」
「そんなことないです。ブギーマン先生のそういう先生らしいところを見られて嬉しいです。私はもっと色んな先生を見たい。その……私の知らない一面を知りたいっていうか……」
語尾が弱々しくなっていく。俯くと、顔が熱かった。
「それくらい、先生のこと、大好きなの」
火照る顔を上げると、目が合った。先生は片手で顎を掴むようにして口元を覆っていた。胸の内側で、心臓がバウンドするバスケットボールみたいに大きく跳ねている。きっと今、私の顔はバケツの中のシャベルよりも赤いだろう。
「……っ! あ、明日のデート、楽しみにしてますっ、約束、忘れないでくださいねっ」
顔がもっと熱くなるのを感じながら、手を振って先生に背中を向けて走り出す。陸上部の部員もびっくりするくらいのスピードが出た。
猛スピードで遠ざかる彼女の背中に視線を溜めたまま、ブギーマンは瞬きを忘れた。歯を食いしばって顎を硬くさせ、表情が崩れないようにするのが精一杯だった。
湿り気を帯びた夜の風が吹いてようやく、肺腑に残っていた空気を大きく吐き出した。危なかった。ここが校庭でなかったら、キスをしていた。
「可愛らしいことを言ってくれる」
目を伏せて独りごちる。耳が熱い。辺りが薄暗くて助かった。
彼女を甘やかすのは明日にしよう。彼女が観たがっている公開されたばかりのホラー映画を観て、食事をしよう。手を握って、名前を呼んで、キスをしよう……
ブギーマンは花壇を見やった。たった今球根と種を植えた場所——そこには生き生きとした命がある。芽吹いた種子が瑞々しい花を咲かせるように、彼女との関係はこれから時間を掛けて育っていく。彼女のいう通り、お互いを知り、愛を深めていくことになるだろう。
彼女に対する唯一無二の愛おしさが込み上げて、校庭の片隅で、妖精は口の端を緩めた。
風が吹く。今度は暖かい風だった。春の訪れは近い。