この国の統治者であるパガンが外交のために王宮を留守にすることはよくあることで、広く静かな王宮で留守番をすることにはもう慣れた。
昼間に帰ってくることもあれば、夜遅くに帰ってくることもあるが、できるだけ彼を出迎えるようにはしていた。
その日、国王がキラットに帰国し、王宮に戻ったのは、日付が変わる少し前だった。
いつもの派手な柄のシャツとピンク色のスーツではなく、彼はここを出た時と同じシンプルな青いシャツに黒いスーツを着ていた。
「疲れた顔してるな。早く休んだ方がいいんじゃないか?」
「君を見たら疲れも吹き飛んだ」
「そりゃよかった」
ソファに腰掛けたままパガンを見上げて頬を崩すと、彼はどっかりと隣に腰を下ろした。生じた微かな風が鼻先を掠めた瞬間、嗅いだことのないいい香りがした。
「あれ?」
「どうした?」
「コロン変えたか? いつもと違ういいにおいがする」
パガンに鼻を近付ける。馥郁とした、甘い、魅力的なにおいがする。
「君は鼻がいいな。新調したばかりだ」
パガンは相好を崩した。
「……マジで? あッ」
パガンの腕が背中に回って、彼の胸に崩れるようにして抱き締められる。
「気に入ってくれたかな?」
ミントの香りがする吐息が顔に掛かる。視線を上げると、パガンの睫毛の長さがわかるくらいの距離になっていた。ハッとした時には、額でリップ音が弾んでいた。戯れの口付けに顔が熱くなる。すぐに耳まで熱くなった。
咄嗟に顔を逸らすと、背中にあった手に力がこもるのを感じた。
「エイジェイ? 照れているのか?」
「照れてない!」
「ほんとうに?」
「…………!」
顎を掴まれ、火照る顔を無理矢理元の位置に戻される。胸の下で穏やかに脈打っていた心臓の音が耳元でした。唇を引き結んで彼を見据える。こんな近くでパガンの顔を見たのははじめてだ。ああ、いいにおいがする。
視線が重なって先にパガンが微笑んだ。壮年手前の男の、月が美しい晩秋の夜に似た魅惑的な、気怠い哀愁を含んだ、噎せ返るような色気に圧され、息をするのを忘れた。
「君はからかい甲斐があるな」
顎にあった手から解放されても、パガンから視軸をずらすことができなかった。
「エイジェイ?」
「あ……」
――一瞬、キスがしたいと思ってしまった。
「なんでもない」
上体を起こして、何事もなかったかのようにソファの背凭れに寄り掛かる。心臓の音がまだうるさい。
全部香りのせいだ。
自分にそう言い聞かせて、鼻から甘ったるい酸素を大きく取り込む。
「……パガン」
「ん?」
「おかえり」
「ただいま」
間にあった手をパガンに握られる。彼の方を見ずに握り返して、身体にこもった熱を吐き出すように、息を吐いた。