怒りは血の色をしている。
そう教えてくれたのは誰だったかは思い出せないが、それならば、私の身体は真っ赤なはずだ。だって、ずっと怒りに満ちているから。
なのに私の肌は血の気がない。蒼白く、冷たい。私が蒼白いのは父に惨たらしく殺されたからだった。亡霊なのだ、私は。死してなお私は父を見つけ出して殺すことに固執している。肉体を持たない私を駆り立てるのは憤怒だった。
憎い、悔しい、許せない――怒りに任せて、悲鳴を上げて倒れた男の身体に刀を何度も振り下ろす。錆び付いて刃こぼれした刀は、肉を斬るというよりも、削り取ると言った方が正しいのかもしれない。ただ、そんなことはどうでもよかった。男が動かなくなっても私は手を止めなかった。目一杯憎悪を叩き込んだ。噴き上げた血が私の頬を濡らしていたことに気付いてようやく手を止める。
動かなくなった男は、父ではなかった。
途端に興味をなくした。ふらふらと亡骸から離れ、父を探すことにした。
なにをしていても、父への復讐心が胸を焦がす。私には、穏やかな時はもうないのだ。冷たい身体に燃えたぎる怒りを宿す亡霊――それが今の私だ。
夜空を仰いで、歯を食いしばる。沸々とどす黒いものが込み上げてきた。
悲しみは海の色をしている。
そう教えてくれたのは誰だったか思い出せないが、儀式から戻った山岡凜が音もなく左から右へ移動するのを目で追いながら、フィリップ・オジョモは見たことのない海を想像していた。
しかし、想像したところで、やはり、見たことがないのだから、海というものがなんなのかわからなかった。彼女の肌のように青いということはわかるのだが……
フィリップは次に、女の情念ほど恐ろしいものはないと父が笑って語っていたのを思い出した。
女の恨みは怖いぞ、お前も気を付けろ――父はそう言っていたが、生憎フィリップ自身、女とは無縁の人生だったので、これもよくはわからなかった。
しかし、憎悪というものがなんなのかはわかる。骨の髄まで灼き尽くすほどの憎しみで人は変わることも知っている。
フィリップは頭の中でからからと笑う父を追いはらい、凜を凝視し続けた。
彼女の包帯が巻かれた華奢な身体――切断されている腕や足は浮遊し、ガラス片が全身あちらこちらに突き刺さっていて痛々しい――は、どこを見ても血の気が失せた蒼白い肌をしている。きっと自分と同じく彼女の肌は冷たいのだろうとフィリップは思う。
彼女は父親に殺されたのだとサリーから聞いている。
――父親を殺してやりたいんですって。
遠くを見据えて言ったサリーの声が蘇る。凜がこの森に姿を見せてからずいぶんと長い気がするが、まだ存在しているということは、凜の身体の芯に灯る怒りの炎は今なお燃え上がっているということだ。父親に対する彼女の怒りは想像に難くない。だが、手に負えない激憤の中に、深い悲しみと絶望のにおいが混ざっているのをフィリップは嗅ぎ取っていた。
彼女とはあまり関わったことはないが、安息とは程遠い夜を過ごしているのだろう。かつての自分のように。
ふと、凜の胸に巻きついた、引き裂かれた包帯の端が剥がれてはためいているのを見付けて、フィリップは慌てて腰を上げ、彼女に近付いた。
「凜」
名前を呼ぶと、彼女は足を止めて振り向いた。逆立った長い黒髪がうねっている。
「なにか、用?」
黒い涙の跡が残る頬がぴくりと動く。
「早急に包帯をサリーに変えてもらったほうがいい。それまでこれを使ってくれていいから」
フィリップは自身の羽織っていたポンチョを脱いで差し出した。
「……なんのつもり?」
「え?」
「同情しないで」
凜の細い眉が寄り、眉間に刻まれたシワがますます深くなった。
「同情? そんなつもりはないよ。気に障ったのなら謝る。ただ、君は女性だし……その、包帯がずれ落ちそうだったから」
それだけだと結んで、フィリップは口を閉じた。
凜は首を傾げた。そして胸元を一瞥すると、「ああ、本当ね」と呟いた。
「だけどそれは受け取らない。……でも、ありがとう」
凜の険しい表情が一刹那和らいだように見えて、フィリップは目を丸くさせた。
凜が顔を横に向けると、威嚇する蛇が発するようなシューッという音が辺りに響いた。どうやら、凜がフェイズウォークをはじめたらしい。聞き慣れない、不安を駆り立てるような音を聞いていると、目の前にいた凜がいきなり消えた。
おそらく、サリーの元へ行ったのだろう。
静けさが戻ってきた。ぽつんとひとり取り残されたフィリップは、ポンチョを羽織った。
彼女の底知れぬ怒りと憎悪がいつかはらされる日がくればいい――そんなことを思いながら、フィリップは明けることのない夜の空を仰ぐ。
それから「あ、同情はいらないんだったな」微苦笑して、鼻から深く息を吸った。猛り狂う龍の息吹のような熱い夜気は、血のにおいがした。