シェイクスピアとモリアーティー

 頬に微風を感じた直後、何かがデスクにぶつかる小さな音で集中力が切れた。ペンを走らせる手を止めて羊皮紙から視線だけ上げると、広げられた羊皮紙を避けるように、デスクの端に受け皿に載った白いシンプルなティーカップが置かれていた。受け皿には角砂糖がふたつと、スプーンも添えられている。
 カップの中から立ち込める湯気のように、頭の中に溢れていた数多の言葉が雲散した。
 革手袋をした手が小振りなミルクピッチャーをカップの隣に置いた。
 状況を理解するのにも、二徹目の頭では時間が掛かった。口を半開きにし、ぼうっとしたままの頭を僅かに持ち上げると、隣に〈新宿のアーチャー〉が覗き込むようにして立っていた。
「ティータイムも忘れてしまうなんて、イングランド人らしくないね、ミスターシェイクスピア」
 低く滑らかな耳に馴染む声に、ぼんやりしていた意識が覚醒する。首を巡らせて柱時計を確認すると、短針は午後四時を過ぎていた。
「こんな時間でしたか。吾輩としたことが」
 羽ペンを置いて、苦笑いを浮かべたまま固まった背筋を伸ばしてぼりぼりと頭を掻く。
「お近づきの印に。ブレンドした紅茶だよ。これを飲んで少し休むといい。目の下のクマが酷いよ」
「お気を遣わせて申し訳ない、集中すると七十二時間は机に噛り付いてしまいまして。教授が吾輩のために紅茶を淹れてくださるとは、感動を覚えますな。いい物語が書けそうだ」
「偉大なる劇作家の執筆活動に貢献できるなんて、いい気分しかしないね」〈新宿のアーチャー〉は愉快そうに喉の奥で笑った。
 カップに手を伸ばす。
 ふと、言葉の断片が浮かんで頭の片隅に引っかかった。それは喉に刺さった魚の小骨のような違和感だった。  
 お近づきーーということはこれから親しくしようということか。
 今更? 何故?
 確かに、仲間と呼ぶには些か距離が遠い。友と呼ぶには互いのことを知らなすぎる。
 だが〈新宿のアーチャー〉は稀代の大悪党である。こういった細やかな気遣いですら懐疑心を抱いてしまうのは、本能的に彼を拒絶しているからだろうか。
 彼はカルデアに召喚されてから悪の鱗片を見せたことはない。学者らしい該博な知識量はさながら、理知的な一面を垣間見ることの方が多い。バイタリティーに富んだ人物であることが窺える。
 現に〈犯罪のナポレオン〉という評は似つかわしくないと思うほど明朗で、茶目っ気があり、マスターである少女とも良好な関係を築いている。
 が、時折、壮年らしからぬ鋭敏な、そして感受性が高い己から見れば邪悪とも取れる光がその双眸に過るのをシェイクスピアは知っていた。
 だから――関わりたくないのだ。彼に近付けば見えない糸に絡め取られてしまう。そんな気がした。彼は懐柔が巧いだろうから。
 角砂糖を投入し、ミルクを注ぎ、スプーンで攪拌する間も、紅茶が熱くて飲めないフリをしている間も、逡巡した。
 果たしてこれを飲んでいいものか、と。
 これを飲んだら、パズルのような、不明瞭なストーリーのピースとして嵌ってしまう気がした。
 シェイクスピアは再び、視線だけをティーカップから上げ、〈新宿のアーチャー〉を見上げた。
 途端、頭の中で、新しい物語が浮かび出す。身体の自由を奪われ、死ぬよりもつらい目に遭わされるような、残酷な話が。
 上と下で視線がぶつかると、〈新宿のアーチャー〉の整った白い口髭の下で、薄い唇が開いた。
「おや――私が、怖いかね?」
 ずいぶんと低い声だった。それは問い掛けというよりも、独り言のように聞こえた。目は口ほどに物を言うという。もしかしたら、眸の奥に潜む形のない警戒と畏怖を汲み取ったのかもしれない。
 彼と関わることで悲劇になるか、はたまた喜劇になるかーー腹から込み上げて喉に迫り上がる好奇心を飲み込んで答える。「いえ、まさか」
 できるだけ自然な笑みを浮かべたつもりだった。
「Present fears. Are less than horrible imaginings(眼前の恐怖も想像力が生みなす恐怖ほど恐ろしくはない)ーー恐怖は吾輩の頭に詰まっているのですよ。名状し難く、筆舌に尽くしがたいほどの恐怖が」
「へえ、面白そうだネ。見てみたい」
 それはマスターとのやり取りにみるような、明るく柔らかい声音だった。
「ははっ、物好きですなぁ、この紅茶の御礼に、あなたのために何か書きましょう」
「私のために? なら主人公は悪人がいい」
「マクベスのような?」
「悲劇は望まないよ、喜劇の方がいい」
〈新宿のアーチャー〉の目尻のシワが深くなった。釣られて口の端が持ち上がる。
「では、この紅茶をいただいてから執筆に取り掛かるとしましょう」
「ああ、ミスターシェイクスピア、その前に少し眠るといい。マスターも心配していたからね」
 瞼の裏に屈託無く笑う少女の顔が浮かんだ。ああ、ここに来たのが彼ではなく彼女だったらどんなによかっただろう。
「私はこれで失礼するよ。おやすみ、ミスターシェイクスピア」
 肩に乗った革手袋に包まれた手が鉛のように重かった。
 靴音が遠のいて、ドアが背後で閉まるのを確認して、口元まで運んだティーカップを受け皿に戻した。
 どうしても、飲む気にはなれなかった。
 乳白色の溜まりが毒薬に見えた。これを飲んで眠りに就いたら、二度と目覚めない気がした。
 デスクの明かりを消して、仮眠を取るためにソファまで移動する。
 彼に贈る一編のあらすじを考えているうちにまどろみ、間も無くして、眠りに落ちた。