ゴースト・アップル

「あ、もう朝だね。ニュースを観なくちゃ!」

 パスファインダー(おしゃべりロボット)は、いつだってマイペースだ。朝だろうが夜だろうがお構いなしで、突然押しかけてきたと思ったら、よすがら散歩に付き合わされるなんてことは日常茶飯だ。睡眠を必要とする皮付きは付き合いきれないだろう。

 彼は今でこそ活溌溌地(かっぱつはっち)だが、失恋から――それはパスファインダーにとってはじめての恋だった。ハモンド研究所のゴミ捨て場に廃棄されていたシミュラクラムを持ち帰り、再起動させて一緒に暮らしていたが、哀れにも呆気なく恋は終わった――しばらく意気消沈していた。

 らしくない悄然した姿に苛立って、夜な夜な脅迫半分で湿っぽい倉庫から連れ出し、日が昇るまで宛もなく連れ回した日が遠い昔のように思える。

 夜な夜な彷徨う中で、たまたま廃工場を見付けてから、パスファインダーはすぐに元気を取り戻した。錆び付いた生産ラインや、崩れ落ちた天井ですら、彼は気に入ったようだった。

 打ち捨てられた発電機を修理して稼働させ、転がっていた半世紀前のテレビを生き返らせて、シートがずたずたの高耐荷重ソファに並んで朝のニュース番組を観るのが散歩の終わりだった。

 そういえば、パスファインダーと蜜月になってしまったと気付いたのは、私がはじめてこのソファに座った時だった。

 つまるところ、このMRVNのペースに呑まれて腑抜けてしまったわけだが、今ではすっかり彼が隣にいることが当たり前になっていた。なにより、長い夜をひとりで過ごさなくなってから、過去の痛みを忘れることができた。

 私は幾度となく惨い死に方をしても、太陽が東から昇り西に沈むように繰り返し新しい身体に紛い物の記憶をねじ込まれて甦ったが、蓄積された死の瞬間の記憶は、今なお記憶領域にこびりついている。ふとした時に死の冷たい手に撫でられると、神経コードから火花が散りそうになる。

 パスファインダーといることで、手をはらいのけることができた。フラッシュバックする死の記憶すら、見飽きた彼の顔と楽天的な言動や振る舞いには敵わなかったのだ。

 長きに渡り身を置いてきた闇の中から光の領域に足を踏み入れるのは躊躇するが、パスファインダーと過ごすことで闇と光の境界線があいまいになってきている。

「続いてのニュースです」

 ニュースキャスターが白い歯を見せて笑った。

「農園で珍しいリンゴが採れたようです。こちらをご覧ください」

 映像が替わった。水晶で作られたようなリンゴが映っていた。画面の隅に「自然の神秘、氷のリンゴ」とテロップが出た。

「僕これ知ってる! ゴーストアップルだ」

 ニュースキャスターの大袈裟な解説がはじまる前に、パスファインダーは背凭れから上体を起こして食い付いた。

「レヴナントはゴーストアップルを見たことある?」

 記憶領域からメモリーを漁るまでもなかった。

「ない」

「僕は果樹園で収穫の手伝いをしていた時に一度だけ見たことがある。〝思い出フォルダ〟にあるはずだ。探してみる」

 急にニュースがどうでもよくなった。

 パスファインダーの胸部ディスプレイが暗転した。次の瞬間、真っ赤なリンゴが映し出され、すぐに焼き目のついたパイに切り替わった。

「うーんと、どこだろう……」

 テレビのチャンネルを変えるのと同じく、パスファインダーはしまいこんだメモリーを探している。

「あった、これだ」

 めまぐるしい思い出の流れはついに止まった。ディスプレイに表示されているのは、雪の積もった枝に成った、向こう側がぼやけて見える透き通った氷のリンゴだった。輪郭はやや歪だが、大きさは一般的なリンゴと同等だろう。まるで最初からそこで育ち、実ったかのように、分かれた枝先にぶら下がっていた。朝の日差しを反射させた表面は、瑞々しく照っている。

「雪と雨が数日続いたある晴れた朝に見付けたんだ。きらきらしていてきれいだった。ここにもともと実っていたリンゴは古くて腐りかけていたのに、魔法みたいでしょ? 果樹園の人は奇跡だって言ってたよ」

「腐った中身が溶け落ちて、氷の殻だけが残る絶妙な条件が揃っただけだろう。魔法など存在しない。ましてや奇跡など。そんなものはありえん」

「いいや、あるよ。僕たちみたいに!」

 パスファインダーの角ばった掌に、両サイドから(かお)を挟み込まれた。

「レヴナントに出会えたことも、仲良くなれたのも、こうして触れられるのも、僕にとっては奇跡だよ! 僕は君に夢中さ!」

 彼の胸部ディスプレイは、いつの間にかピンク色に光っていた。

「僕が落ち込んでいた時、君は他のみんなと同じように僕を励ましてくれた……そう思っていたけど、違った。その前から、レヴナントは僕のそばにいてくれたよね。正確には僕が君のそばにいたのかもしれないけど、今の僕は魔法にかかったみたいに君しか見えない。ねぇ、ずっと伝えたかったことを言ってもいい?」

 答える代わりに、アイセンサーを明滅させた。

「僕は君を愛してる」

 愛。概念は知っている。他者への親しみ。特別な思いやり。見返りのない優しさ。無条件の慈しみ。人間の弱みになるもの。私の知らないもの……。

 パスファインダーが出力した「愛」というは、彼が友人(皮付)たち(きども)にあまなく向けている博愛とも、友愛とも違う。彼の中の原始的なプログラムが構築したのは、私だけに向けられた唯一無二のコードだ。

 湿ったオレンジ色の燈を灯したカメラアイと引き合った。曇りのないレンズに沿って曲線を描くフレームの上部が頭巾と(かお)の境目と重なって、かつりと硬い音が跳ねた。装甲の内側でパルスが穏やかに波打つ。包まれ、溶け合い、二機(ふたり)でひとつになったような感覚だった。

「愛してるよ。僕には君が必要だ」

 演算(C)処理(P)装置(U)は、痛みを伴う切なさと返答を導き出した。苦痛を知っているはずなのに、全身にじわりと広がったのは、知らない痛みだった。痛い。しかし、心地好い。数世紀にわたって味わったことのない痛みだ。

「……私は」

 返答を音声出力し、彼に伝えてしまったら、途方もなく深く暗い空洞が満たされてしまう。踏み越えてはいけない一線を越えてしまう。己がパスファインダーに抱く感情は、親しみでも思いやりでもないかもしれないのに。

「私は、お前が隣にいることを望んでいる」

 これは執着だ。

 自覚すると、動力コアが一気に火照った。

「僕たち、恋人になれる?」

「……それも、悪くはないな」

 パスファインダーの頭部側面へ指を伸ばす。彼の胸部から、キュルキュルとか細い駆動音が流れ出た。

「愛してるよ、レヴナント」

 遠い昔に腐り果てた私の死体を、パスファインダーは包み込んだ。「まさに奇跡ですね。それでは、よい一日を!」

 ニュースキャスターの挨拶が、祝福のメッセージに聞こえた。