腕時計の短針が五時を差した時、閑散としたホテルのロビーに、大理石の床を叩く戞然とした靴音がひとつ響いた。靴音は鷹揚と、しかし確実に近づいて来た。
約束の時刻丁度だ。腕時計から顔を上げると靴音は背後で止まり、腰かけていたソファから立ち上がる前に、肩にぽんと手が載った。
「部屋は取れたか?」
耳朶を打つ心地良いバリトンボイスに、口端を緩めて頭を擡げる。
「取れましたよ」
天井からぶら下がるシャンデリアの逆光に立つシルエットは、己が最も敬服している男のものだ。
「……部屋で話そう」
小さな声に無言で頷いて、部屋のカードキーを渡して、横に置いたアタッシュケースを持って立ち上がる。ボスの跡を追い、ゆったりとした歩調でロビーを後にする。すれ違う妖怪達は皆、自分達を避けて通った。小ぢんまりとしたエレベーターに乗っている間も、妖怪達はだんまりだった。重苦しい恐れと嫌悪感が沈黙に混ざり合って頬を掠めた。
部屋は甘ったるいにおいがした。
窓辺に立って夜の街を見下ろすボスの背中に視線を溜めたまま、どう切り出すべきか逡巡した。
今日は、エンマ大王の命で妖魔界まで赴いたのだ。余程重要なやり取りをしたに違いない。それはこちら側に有益なことではないことは間違いないだろうが。
「エンマ大王様はだいぶ頭がお固いようでな」ボスはゆっくりと振り返った。軽い口振りだった。唇を引き結んで言葉の続きを待っていると、ボスは眉間に皺を刻み、語を継いだ。
「私はじきに追放されるかもしれん」
頭の中が真っ白になり、次の瞬間には、怒りで沸騰していた。
「愛しいファミリーを手放すのは心が痛む。お前とも会えなくなる。……ああ、心が張り裂けそうだ」
「……カチコミかけますか」
「いや、大王の玉座を奪うにはまだ早い。それに、いずれ奴はこの世界をより良いものにするだろう。そうしたら、私がこの手ですべてを奪う。奴が私から奪ってきたものも取り返す。それまでは耐えろ。私が戻るまで」
距離が縮んで、向かい合った。
「インジャネーノ」
「はい」
「お前は私にすべてを捧げられるか?」
「…………」唐突な質問に、激情はすっと引いていった。ボスの双眸を見据えて、軽く息を吸う。
「勿論。貴方の為なら、命も惜しくはありません」
「はっは……そうだな……お前は忠犬だな」
「ボスに拾われた命です、当然でしょう」
ボスの深い色の双眸が細まった。眸の奥深くで、野心が息づいている。燃え盛る炎のように、強い意志が揺らいでいた。昔から、この眸が好きだった。
ボスは笑みを浮かべたまま、掌を下にしてこちらに手を伸べた。黒い手袋は外されている。
血脈の浮いた節くれだった手を取って引き寄せ、顔を近付けて、中指の付け根に口付ける。忠誠心と尊敬と畏怖の念を込めた口付けの後、彼は決まってこう言う——いい子だ、と。
当然、もう「子」と呼ばれるような年ではない。それでも、この行為は、彼に拾われた時から続く神聖な行為だった。
「いい子だ」
ふっと胸に多幸感が湧いた。ボスの手が伸びてきて、熱を帯びた指は髪を一房後ろへ流した。天井の空調機から吹きすさぶ温風が剥き出しの首筋を撫でる。
「忠犬を手放すのは惜しい。離れていても、鎖で繋ぎ止めておきたい」
ボスの眸に自分が映るほど距離が縮み、熱い吐息が鼻先にかかった。目を閉じると、右耳の真下で疼痛が生じた。皮膚に歯が食い込み、薄い肉を噛み切った。
離れたボスの唇には鮮血が付いていた。噛み傷から、鼓動に合わせてとくとくと血が流れ出ている。
「お前は私の犬だ。私だけの犬だ」
指の腹が傷口から溢れる血を拭って首の側面から喉仏をゆっくりっと撫で、耳の下を通って項まで回った。
意味はすぐに分かった。首を一巡した赤い歪な輪は首輪だ。
「貴方の為なら、ワシは犬でも修羅にでもなってみせましょう」
「……いい子だ」
ボスの整った口髭の下で、薄い唇が弧を描いた。
首輪は乾き始めていた。
——あれから、あまりにも長い時間が経った。
見えない首輪は、今でも首に巻き付いている。
一匹の犬は、主人の帰りを、今も待っている。
紺碧の夜空の果てで煌煌と輝く星を見上げて。