ふたりの食卓

 その日は朝から雨が降り続いていた。

 雨の日は古傷が痛むことがあるが、今日はまだマシだ。

 キッチンのコーヒーサーバーに残っているコーヒーを飲もうと、勝手にコースティックが愛用しているマグカップ――表面にデザインされた硫化ジクロロエチルの化学式はいつ見てもいい。化学(マス)兵器(タード)()()の名はコースティックにふさわしい――に注いだ。

 ベランダに出る窓の前に立って色の欠けた外をぼんやりと眺め、少し濃いコーヒーを啜りながら、穏やか過ぎる休日を噛み締めた。

 空は灰色の厚い雲に覆われていて日は出ていない。いつもこの時間になるとベランダには西日が差すが、コースティックが時々実験で使用するらしいプランターの草花が色のない景色の中で雨に濡れているだけだった。

「腹ぁ減ったな」

 ぽつりと呟いてコーヒーを一口飲んだ。

 家の中は静かだ。

 家主であるコースティックは、論文を書くと言って朝から書斎にこもりっきりだ。

 ギターを弾くとうるさいと怒るので、大人しく昼寝をして過ごしていたわけだが、そろそろ腹が減った。彼も腹をすかせて出てきてもいいころだ。

――そういえば、冷蔵庫に骨付きの仔羊のすね肉があったはずだ。

「ラムシャンクでも作るか」

 ぬるくなったコーヒーを飲み干し、鼻歌まじりにキッチンに戻り、冷蔵庫を開けた。うっかり魅惑的なビールに手が伸びたが、なんとか我慢して、お目当ての食材を取り出した。

 肉を煮込んでいる間、カウンターに寄り掛かって冷えたビールをあおっていると、幽鬼のように音もなく、コースティックがキッチンにやってきた。

「いい香りだ」

ガスマスクをしていない顔にはいささか疲れが見えた。

「なにを作っている」

「ラムシャンクだ。食うだろ?」

「ああ。腹が減った」

 大柄な身体に似つかわしくない小さな小さな声で言って、彼は匂いに誘われてそばにやってきた。

「まだできないのか? 書斎にいる時からこの香りで集中できなかった」

「まぁそう慌てるな。ちょうどできあがったところだ」

「……失礼。今の私はしつけのなっていない子供だな」

「じゃあ俺がしつけてやろうか、俺の可愛いミーシャ」

「結構。私がお前をしつけてやりたいくらいだ、老犬め」

「ハハ、調子が戻ってきたみたいだな」

 軽口を叩き、火を止めて鍋の蓋を開けると、赤ワインをベースにした芳醇なソースの深い香りがキッチンに広がった。父親から教わったレシピの中でもこれが一番好きだ。たまに作る。コースティックも気に入ってくれている。

「美味そうだな」

 鍋を覗きこんで、コースティックは口の端を持ち上げた。

「当たり前だ、この俺が作ったんだぞ」

 よほど腹が減っているのか、彼はすぐにふたり分の皿を用意してくれた。

 両手に湯気の立つ皿を持って、テーブルに食器を並べて待ちかねているコースティックの元へ向かう。今夜はビールではなく、ソースを作るのに開けた赤ワインで乾杯しよう。

 いつものように向かい合って座り、ワイングラスを満たし、乾杯した。できたてのラムシャンクをナイフとフォークで切り分けて一切れ頬張れば、脂身の少ない柔らかな肉の旨味が口いっぱいに広がった。コクのある濃いソースが舌の上で肉と絡み合う。隠し味に入れたスパイスがいいアクセントになって、爽やかな後味が鼻に抜ける。こうなると手が止まらなくなる。

「美味い」ゆっくりと咀嚼していたコースティックがほっと溜息を吐いた。「肉がとろけた」

「よく煮込んだからな」

 腹をすかせたコースティックは食欲旺盛だ。品よく、美味そうに食べる彼を見て頬が緩んだ。

 外ではまだ冷たい雨が降り続いているが、食卓はあたたかかった。