〈コールドウィンドファーム〉は、フィリップ・オジョモにとって特別な場所だった。
夕暮れ時の空の下に広がる広大なとうもろこし畑を見ていると、生き生きとした植物の力強さを感じられて神秘的だった。今はもう動かない古いトラクターも、塗装が禿げた白い母屋も、フィリップは好きだった。
そして、この牧場にはヒルビリーがいる。この場所には彼がいなくてはならなかった。ヒルビリーがいなければ、この牧場はピースの欠けたパズルになってしまう。この場所を作り出したのは彼なのだ。
「レイス」
トンプソンハウスの二階にある東側の窓辺で、彼は舌っ足らずにフィリップを呼んだ。愛おしくて、抱きしめたくなって、フィリップは口の端を緩める。
「カルミナが来てる」
「えっ?」
ヒルビリーの引き締まった腹に手を回そうとしたところでフィリップは手を引っ込めた。
「カルミナが?」
「ほら、あっち」
レイスはヒルビリーの隣に立ち、ひび割れ、曇った窓ガラスを覗き込むようにして彼が指さした方向を見た。たしかに、とうもろこし畑の奥にある、豚の死体が吊り下げられた岩場の近くに、いつの間にかカルミナ・モーラがいた。
彼女は三脚のキャンバス・スタンドの前に置いた小さな椅子に座って、キャンバスと向き合っている。一体なにを描いているのだろう。
フィリップはヒルビリーと顔を見合わせて「行ってみようか」微笑んだ。
ヒルビリーは「うん」と小さく頷き、ふたりはトンプソンハウスの軋む階段をゆっくりと下りた。
「カルミナ、なに描いてるの」
ヒルビリーが声を掛けると、カルミナは手を止め、ふたりを見て柔らかく眦を下げた。それから筆談用のメモとペンを取り出して、「とうもろこし畑を描いているの」と綴った。
横に置かれたキャンバスを埋める黒いインクで描かれたとうもろこし畑を見て、フィリップとヒルビリーは揃って感嘆の声を上げた。
彼女は一色のインクで、見事なとうもろこし畑を描いていた。密集したとうもろこしの茎一本一本を、線の太さや濃淡を変えて、彼女は描いていた。真っ直ぐに伸びた茎に、脈々と伸びる葉、膨らんだ実からはみ出た細いひげでさえ、繊細に描かれている。とうもろこし畑の奥にあるトンプソンハウスはまだ描きかけで、キャンバスにはまだ白地が多く残っているが、きっとあと七回ほど儀式が終われば完成するだろう。
黒いインクだけで描かれた絵を見て、フィリップはかつて故郷で見た少年、エメカの描いた真っ黒な絵を思い出したが、すぐに忘れることにした。
「俺、カルミナの絵、好き」
ヒルビリーはフィリップの隣で無邪気に笑った。それにつられるようにして、カルミナは引き攣れた掠れた笑い声を漏らした。舌のない彼女の精一杯の笑声だった。
メモには「ありがとう、嬉しい」と書かれた。
「そうだ」と彼女は続けた。「あなたたちを描いてもいい?」
「俺とビリーを描いてくれるの?」
「俺とレイスを描いてくれるの?」
フィリップとヒルビリーは同時に言って、弾かれたように互いを見た。先にヒルビリーが照れて俯いた。カルミナはふたりを見てまた笑った。
「あなたち、お似合いだから」
彼女は美しい几帳面そうな文字でそう書いた。
「それじゃあ、お願いしようか」
「自然体の、ありのままのあなたたちを描きたい」
フィリップとヒルビリーは、カルミナの指示通り、とうもろこし畑の前に並んで立った。ふたりとも絵のモデルははじめてだった。
ヒルビリーの隣で、フィリップは彼の手を握りたい衝動に駆られ――手を取った。
「レイス?」
ヒルビリーは驚いたようにフィリップを見た。
「いいんだ、これで」
フィリップは真っ直ぐに前を見据えたまま言った。
――自然体の、ありのままのあなたたちを描きたい。
カルミナはそう書いた。だから、フィリップはヒルビリーの手を握った。ありのままでいいのだ。これが、「レイスとヒルビリー」の関係なのだ。
キャンバスに筆を走らせるカルミナの紅唇が弧を描いている。
フィリップはヒルビリーの手をしっかりと包み込んだ。
愛すべき〈コールドウィンドファーム〉の夕日がふたりを照らし出す。ぬるい風が吹いて、背後でとうもろこし畑がざわめいた。