子供の頃、はじめて海に連れていってもらった時、わたしは未知なる海が怖くて泳げなかった。
でも、素足で波打ち際に立って、引いては押し寄せる白波に足首まで浸かるのは好きだった。正確には、踏み締めた冷たく柔らかい砂ごと足を引っ張られるような、あのくすぐったさが好きだった。お母さんに抱っこされるまで、夢中になっていた。
規則正しく波がやってきては、たくさんつけた足跡を消していく。それもまた幼いわたしにとっては面白くて、不思議だった。
今となっては、懐かしい思い出のひとつだ。
お父さんが一生懸命膨らませてくれたピンク色の浮き輪を使わなかったのをよく覚えている。水平線の向こうに沈む金色の太陽がすごくきれいだったということもよく覚えている。
暑い夏のことだった。
テスカトリポカの長く美しい金髪が潮風になびいている。
穏やかな波と乱れない潮騒に彼の「いい風だ」機嫌のよさそうな声が混ざる。
休日に久し振りにデート――といってもシミュレーションだけど――をすることになった。わたしが選んだのは、冬の海辺だった。夏もよかったけど、遊びたい気分ではなかった。ただテスカトリポカとのんびり海辺を歩きながら、ゆっくり話がしたかった。
いつもみたいに、会話は、話題がどんどん枝分かれして膨らんでいった。テスカトリポカとお喋りをするのは楽しい。
「この街は夏は観光客で賑やかになるだろう? なのに、なぜ冬にしたんだ?」
頭上で鳴くカモメを見上げて彼は言った。
「夏にするか迷ったんですが、どちらかというと、あなたとこうやって静かな海辺を歩きたかったんです。冬の海は誰もいないから特別な気分になれるっていうか……広大な海をふたり占めできるのって、なんだかロマンチックじゃないですか?」
テスカトリポカは足を止めて「オレとオマエだけの海か」深く息を吸った。「悪くない」
頭上のカモメが遠くに飛んでいく。足元では、わたしたちのところまで届かなかった波がすぐそこまできていた。銀波を見下ろして、一歩海に向けて踏み出してみる。ブーツの先端が黒灰色の砂地に深く沈んだ。子供の頃の思い出が映画のワンシーンみたいに頭の中に浮かぶ。
もう一歩進む。砂に埋もれていた欠けた紫色の貝殻が波にさらわれて、転がるように流されていった。勢いが増した波が打ち寄せてブーツを濡らす。自重で沈んだ部分の周りを、砂が生き物みたいに流動する……次の波がやってくるまえに後退してテスカトリポカの隣に戻る。
「見てみろ。オマエさんが波に夢中になっている間に陽が落ちる」
顔を上げると、ごうごうと音を立てる海の向こうに、太陽が見えた。水面がきらきらと宝石のように輝いている。太陽は世界を黄金色に照らしながら、少しずつ、確実に大海原に沈んでいる。思い出の中の太陽と同じだ。
「きれい」
見惚れていると、テスカトリポカはわたしの片手を取った。
横を見れば、彼も沈みゆく太陽を見据えていた。照らされた横顔は、少年のようにも見えるし、老人のようにも見える。見慣れている端正な顔のはずなのに、まったく知らない誰かにも見える。それでも――テスカトリポカは、美しかった。
優しく握られた。手と手を繋いで、夜のはじまりを待った。
寒い冬のことだった。