祈りのように囁いて

 煙草を一本喫い終えて喫煙所を出て、ゆったりとした足取りで立香の部屋に向かった。
 夕食の席で「明日はお休みだから夜更かししちゃいます」とゴキゲンだったから、今頃オレの到着を今か今かと待ち侘びているに違いない――と思っていたが、待っていたのは、燈の欠けた、ぼんやりと薄暗い部屋だった。
 立香は、ベッドに身体を投げ出して静かになっていた。
 人類最後のマスターも、眠気には抗えなかったらしい。部屋着にも着替えていないから、眠るつもりはなかったのかもしれない。いいや、ほんの少しだけ仮眠を取るつもりだったのかもしれない……どちらにせよ、よほど疲れがたまっていたのだろう。
 それもそのはずだ。
 二日前に微小特異点から戻ったばかりで、レポートにも追われていた。今夜は甘やかしてやるつもりだったが、休ませた方がいい。
 ベッドに歩み寄り、寝息に合わせて上下している丸く薄い肩に視線を留める。起こさないように慎重にベッドの端に腰を下ろし、寝顔を見下ろす。
 普段前髪で隠れている額が覗き、日本人離れしたシャープな顔の輪郭が晒されていた。無防備な寝顔には、まだどことなく幼さが残っている。年のわりに大人びた娘だとは思っていたが、こうして見ると、年相応に見える。
 サーヴァント共は、立香の寝顔を眺めて、きっと「愛らしい」「護りたい」そんな感情に駆られることだろう。
 そして誰もが祈る。
 どうかこのまま朝までぐっすり眠れるように、と。
「オレもそう祈っちまう」
 ぽつりとひとりごちて、立香の瞼にかかった髪を指先で慎重にはらう。一瞬上向きの長い睫毛が微かに震えたが、それだけだった。
 少女は、眠っている。
 起きたらまたマスターとしての責務が待っている。戦いが待っている。今だけは深い眠りに身を委ねていい。戦士には休息が必要なのだから……
「甘やかしはまた今度、だな」
 身体を屈めてこめかみにキスを落とす。もう少しだけここにいたくなった。
「ん……」
 立香は吐息を漏らして寝返りを打ち、仰向けになった。生き生きとした鼓動を刻む心臓が収まった胸元が大きく膨らんで、へこみ、また膨らんだ。乱れることのない穏やかな寝息だけが薄闇にとけていく。
 指を鳴らしてヘッドボードで灯っていた仄燈を消す。
 腰を上げると、足元の人感センサーが反応して、頼りない燈が点いた。それだけで出口まで難なく歩けた。ドアまであと二歩。ふと立ち止まって振り返る。
 闇に慣れた目でベッドを見据えて「オレの夢でも見てくれよ、マスター」祈りのように囁いて、部屋を出た。