観測された微小特異点は、中世の中東だった。
張り切って適性サーヴァント三騎と共にレイシフトをしたものの、早々に二騎とはぐれ、突如エネミーに囲まれ、挙句ストーム・ボーダーとの通信は途絶えてしまった。
それでも立香が冷静沈着でいられたのは、傍にプトレマイオスがいたからかもしれない。立香を庇いながら戦ってくれた彼に情けない姿は見せられないと、立香は自身を鼓舞した。ダ・ヴィンチやマシュのナビがなくとも、やることは変わらない。この微小特異点を調査し、聖杯を回収して、歪みを修復する——。
立香がプトレマイオスに抱きかかえられて着地した場所——高低差のある山道だった——から、幸いなことに半日も掛からずに街に着くことができた。
白い石造りの建物が多い街は露天市が立ち並び、活気づいていた。香辛料の山に種類豊富な魚、大きな肉の塊に色鮮やかな野菜、他にも、豆や卵、パンなども売っていた。様々な食材は目を楽しませてくれた。所々に食堂まであって、人々がゆっくりと食事を楽しんでいた。鼻先をくすぐる食欲をそそる香辛料のにおいに、立香の胃は突然空腹を主張した。
「わあ……すごい……」
——あの赤いスープ美味しそう……卵が入ってる!
「なにか食べていくか?」
プトレマイオスの問い掛けに、立香は思わず足を止めそうになった。
「大丈夫です。食料ならありますから。それよりも、情報収集がしたいです。早くはぐれちゃったサーヴァントたちと合流したいですし」
「……そうか」
立香を見下ろす金色の眸が哀しげに瞬いた。プトレマイオスはなにか言いたげだった。彼は結局なにも言わなかった。今の短いやり取りで思考を読まれて、ただ我慢をしていることを悟られただろうが、それでもよかった。今は呑気に食事をしている場合ではないのは事実なのだから。
日が落ちるまで情報収集を続けたが、これといってめぼしい情報はなかった。しかし、現地の商人たちは立香とプトレマイオスを珍しがって、香辛料や野菜をくれた。中には今朝産みたての鶏卵まであった。それらが入った大きな籠を、ありがたいことにプトレマイオスが小脇に抱えてくれた。
やがて街に燈が灯りはじめ、昼間は賑々しかった市場も人通りがなくなった。今日はここまでにしようということになって、立香とプトレマイオスは宿に落ち着いた。
「よかったら、使ってください」
立香は商人たちから譲り受けた食べ物を女将に渡した。女将は大いに喜んで、気前のいい客を一番いい部屋に案内した。プトレマイオスと女将が廊下で話し込んでいるのを背にし、瀟洒な部屋を見渡してマスターとしてこれからどうするか考えたが、身体は温かい食事と広いバスタブを求めていた。
さすがに風呂は難しいだろうなと、立香は微苦笑した。
「明日は、見つかるといいな」
並んだベッドの片方に座り、立香はふっと息を吐いた。途端に、満腹になって鈍った身体を疲労感がじわりと駆け巡った。
「みんなどこ行っちゃたんだろ。敵に捕まってたりしないといいんですけど」
「同行したのは忠義の騎士に教団の暗殺者だったな。実に強かな者たちだ。心配は無用だろう」向かいのベッドでプトレマイオスが穏やかな口調で言う。「今も休むことなくおまえを捜しているに違いない」
「そうかなあ」
「そうだとも。仕えるとはそういうことだ。夜空には価値ある星がなくてはならない。誰にとっても、おまえは護るべきただひとりのマスターだ。もちろん吾もすべてをかけておまえを護るつもりだ」
彼の言葉の端々に強い思いがこもっているのを感じた。仄燈の中で、金色の双眸が鋭く細まったのを見て、立香は肺一杯酸素を取り込んで背筋を伸ばす。
「あなたにそう言われると、身が締まる思いです」
明日も頑張りますと結んで、ふんと鼻を鳴らした。
「今夜はゆっくり休むといい」
「うん。そうします。おやすみなさい」
ベッドに入ってすぐに、立香は眠りに落ちた。
翌朝。
宿の食堂で出てきたのは、落とされた卵が目玉焼きのようにふたつ浮かんだ真っ赤なスープと、籠に入った丸いパンだった。
それは昨日立香が露天食堂で見たスープだった。
「これって……」
「昨日の食材で作るように頼んだ」
「えっ」
立香は弾かれたように顔を上げた。
「わざわざわたしのために?」
「食べたそうにしていただろう」
皿を挟んだ向こう側で、プトレマイオスは涼しげな表情をしていた。昨晩彼が女将と話していたのは朝食のことだったのだと気付いた。
「シャクシュカという料理だ。美味いぞ。熱いうちに食べるといい」
「ありがとう。いただきます……!」
手を合わせて、スプーンを手に取った。シャクシュカ。立香にとっては未知なる料理だ。皿の底からたっぷり掬うと、ふわりとにんにくと複雑な深みのある香辛料の香りが立ち上った。息を吹きかけて冷まして一口啜ると、トマトの新鮮な酸味とコクのある甘味が舌に広がった。わずかに辛いが、食欲を掻き立てる辛さだ。
「……美味しい!」
「トマトとオリーブオイル、玉ねぎと卵と至ってシンプルな食材で作るが、スパイスの種類と量が味の決め手だ」プトレマイオスもスープを飲んだ。「ふむ、ここの女将は腕がいいらしい」
「待って、これをこうしたら絶対美味しいよね……?」
閃いたは立香は、パンをひとつ手に取ると、一口サイズにちぎってスープに浸し、おそるおそる口に運んだ。思った通り、絶品だった。パンはスープを吸ったが、少し硬いのでふやけることはなく、噛めば噛むほど小麦の香りとスープの味を感じられた。
パンを頬張ると、赤い果実が断面にあった。
「このパン、なにか入ってる」
「無花果だ」
「もしかして、時々あなたが食堂で食べてるやつ?」
「ああ。焼いてもらった」
「朝からこんな贅沢していいのかな」
「贅沢ではない。ただの朝食だ。戦い抜き、よく寝たら、よく食べる。そうやって一日ははじまる。特におまえは食べ盛りだ。しっかり腹を満たしておくといい」
「うん。たくさん食べます」
スプーンを握り直し、立香は左側の卵の黄身にスプーンの先端をそっと立てた。白い膜に覆われた黄身はあっさり割れた。中は半熟だった。濃い黄身が溢れ出し、鮮やかな赤と混ざり合う。
「この特異点で吾が適性サーヴァントとして選ばれた時、正直喜ばしく思った。いつも記録を読むか、聞くことでしか知り得なかったおまえの物語に直接関われるのだと思い、浮かれた」
プトレマイオスは、いつも微小特異点での土産話を楽しみにしていた。
彼の部屋で、彼の隣で話をする——そんなふたりきりの穏やかな夜は、立香にとって揺るぎない心安らかな時間になっていた。
プトレマイオスの柔らかな表情も、自分だけを映す深い金色の双眸も、親しみを込めて名前を呼んでくれる声も、大きな掌に手を包まれた時に伝わる体温も好きだった。すべてが、好きだった。
——あれ。もしかして、わたしは。
立香の皿の底にスプーンが当たって鈍い音がした。沸々となにかが胸の中で煮えていく。
「わたし……」
皿の中のスープのように、立香の顔がみるみるうちに赤くなっていく。
「わたし……プトレマイオスのこと、好き、だ」
目が合った。互いに瞬きもせずに見詰め合った。
迸るほどの熱情が胸の中を満たした。どうしてこんなところで恋心を自覚したのか立香にはわからなかったが、抑えられなかった。好きなものは好きなのだから仕方ない。
「ああ」プトレマイオスの目尻のシワが深くなる。「また、知らない表情を見せてくれたな。その表情は、吾にだけ見せてくれ」
「……っ」
さらに顔が火照るのを立香は感じた。
「続きは吾の部屋で聞かせてくれないか。乙女の甘い言葉は、ここではもったいない」
プトレマイオスは実に楽しそうに見えた。これ以上顔が赤くならないように別のことを考えようとしてみたが、浮かぶのは、プトレマイオスの好きなところだった。込み上げた羞恥心を流し込むように水を二杯飲み干した。
ふたりはその後、シャクシュカとパンを平らげ、宿を出た。
降り注ぐ朝日が白く眩しかった。埃っぽく土のにおいがする空気を吸い込んで、立香はプトレマイオスの隣に立つ。
「帰ったらたくさん味わわせてあげます。乙女の恋心を」
拳を強く握り、恋する乙女は決意する。初恋も二度目の恋もとうに忘れてしまったけれど、三度目の恋は甘酸っぱいだけではない。スパイスが効いている。これを彼に食べさせたい……
プトレマイオスは立香の手を取った。少しかさついた親指の腹が令呪を撫でる。視線が上と下で絡まる。それ以上言葉は必要なかった。滾るほどの親愛がふたりの間にはあった。
風が吹き抜けて、足元で土が舞う。
その時、ストーム・ボーダーとの通信が復旧した。
微小特異点の調査は、はじまったばかりだ。