デスパーとオウケン

——デスパー様にこちらを差し上げます。私のレシピ帳です。よろしければ作ってみてください。
 城を出る日、涙脆い料理長は厳つい赤ら顔を涙で濡らしながら、私に古びた一冊の本をくれた。そこには長年城の厨房で腕を振るってきた彼の叡智が詰まっていた。
——ありがとう、大切にしますよ。
 握手を交わすと、料理長は男泣きを爆発させ、涙声で何度目かの別れを告げた。
城勤めを辞めて城市に越してきてから早いもので三月が経ったが、私は彼からもらった秘蔵のレシピ帳に載っている料理をひとつも作れていない。
 新居にはかまどもある。鍋や包丁といった調理器具も一式買った。調味料も一通り揃えた。食材だって買い出しに行けばいい。しかし、料理長のレシピ帳は、一度も料理を作ったことがない私にとって、どんな哲学書や学術書よりも難解だった。
 一度だけオムレツを作ろうとしたことがあった。卵を割るのも難しかった。結果は言うまでもなく散々だった。まず、「塩胡椒少々」の「少々」がどれくらいなのかわからなかった。「パセリ適量」の「適量」も、果たしてどのくらいが「適量」なのかわからない。手探りだ。
 破れて中身の飛び出た味の薄い歪なオムレツもどきを口にしながら、料理の難しさを噛み締めた。
「それで、一度も作れていないわけですか」
 非番の日に私の元を訪った弟は、砂糖とミルクたっぷりの紅茶を啜り、私の話を聞きながら例のレシピ帳をめくっている。
「作ってみたいのですが、私には難しくて」
 溜息を零して、オウケンの手土産である料理長特製のブラックベリーのタルトを頬張った。分厚い甘い果肉がとろけた。
「デスパー兄」
 オウケンのティーカップが受け皿に戻った。弟は朗らかな笑顔を浮かべて「それなら、私もお手伝いします」言った。「ふたりならきっと作れますよ」
 こうして私は再び料理に挑戦することになった。

 オウケンがレシピ帳の中から選んだのは「鶏肉のトマト煮込み」だった。
 ティータイムのあと、早速買い出しに行った。市場は賑々しく、活気に溢れていた。馴染みの食材から見たことのない食材まであって、見て歩くだけで楽しい。寄り道をしたかったが、ぐっと堪えて、レシピ帳にあった食材と、黒麦のパンだけ買った。
 帰宅して、台所のカウンターに食材を並べた。鶏腿肉(オウケンがたくさん食べたいと言うので一ポンド買った)、タマネギ一つ、トマト二つ、ズッキーニ一本、にんにく一房、ローリエにバジル。オリーブオイルと白ワインはうちにあるから買わなかった。触れることなく三月もの間立てかけていたまな板をカウンターに置いて、開いたレシピ帳を弟と覗き込み、料理長の癖のある文字を目で追う。
『鍋にオリーブオイルとにんにくを三かけ入れて火にかける。にんにくの香りがしたらタマネギを入れて炒め、鶏の腿肉を入れる。両面が焼けたら白ワインを大匙五杯とローリエを入れて鍋に蓋をして、鶏肉を三分ほど蒸し焼きにする。ローリエはその後取り除く』
 オウケンと私は顔を見合わせた。
 にんにくとタマネギはどう切ればいいのだ……。まだ皮を剥いていないタマネギを手に取って立ち尽くすが、やるしかない。
「オウケン」
「はい」
「鍋をのせて、かまどに火をつけてもらえませんか。私はにんにくとタマネギを切ってみます」
「わかりました」
 オウケンは鍋を樋口に置いてから、早速薪をかまどに投げ込んだ。私はその間ににんにくの房をばらして皮を剥いて三片まな板に乗せた。タマネギの皮もちまちまと剥いた。そして包丁を握り、まな板の上で剥き出しになった野菜たちを見下ろした。やはり切り方がわからない。
「火がつきま……兄さん?」
 しゃがんでかまどにつきっきりだったオウケンが立ち上がり、剣呑と眉を寄せて私を見た。かまどの中で、ぱちりと薪が弾ける音がして、重苦しい沈黙を燃やした。
「私が切りましょうか?」
「……お願いします」
 オウケンは包丁を手にすると、まな板の前で背中を丸めて、半月型の小さなにんにくの群れを一片一片真ん中から半分に切り、次に、タマネギに立てた刃をゆっくりと下ろした。一刀両断されたタマネギは瑞々しい断面を見せた。
「一口サイズに切ればいいでしょうか」
「そうですね。適当に切ってください。私はにんにくを炒めます」
 気が付けば熱していた鍋にオリーブオイルをたっぷり注ぎ、オウケンの切ったにんにくを鷲掴みにして鍋に投げ入れた。
 タマネギを切るオウケンの手つきはぎこちない。剣さばきにおいては天下無双の冥府の剣王も、包丁の扱いは新兵のようだった。
「デスパー兄、目が痛い。涙が出てくる」
 オウケンは服の袖で目元を拭い、泣きながらタマネギを切った。可哀想に思いながらも、不揃いなタマネギの山が築かれていくのを見守り、にんにくの香りがしてきたので、オウケンの涙の結晶を鍋に入れた。
 メインの鶏の腿肉も、オウケンが切ってくれた。レシピ帳にあるとおり、ローリエと一緒に入れて、両面をしっかり焼いた。大匙五杯の白ワインをここで投入するのだが、計る匙もないので、目分量で注いだ。鍋の中からじゅうじゅうと凄まじい音がして油が跳ねたので少し驚いた。
「次はなんですか?」
 鶏肉を蒸し焼きにしている間に、弟とまたレシピ帳を見た。
『鍋に刻んだトマトを二個分入れて軽くひと煮立ちさせ、塩と胡椒小匙三杯ずつで味付け。最後に乱切りしたズッキーニと千切ったバジルを入れて半刻煮込んで完成』
 またオウケンと顔を見合わせた。
「トマトを刻む?」「乱切りとは?」オウケンはそんな顔をしていた。
「オウケン、交代しましょう。今度は私が切ります」
 立ち位置を変え、オウケンを真似て、真っ赤なトマトにそっと手を添えてまな板に押さえつけ、中心に刃を立てた。包丁の刃はすんなりと沈み、トマトは半分に切れた。レシピ帳にあった文言そのままに、私は必死にトマトを刻んだ。皮の内側の柔らかなゼリー状の部分が潰れてまな板に広がって汁まみれになろうが構わなかった。
「いい匂いがしますね」
 オウケンは鍋の蓋を取り、木ベラでローリエだけを取り出し、流し台の片隅に溜めた野菜の皮の山に放り出した。
「トマトを入れますよ」
 まな板を持ち上げ、鍋の手前で傾けて、刻んだトマトを包丁で押し出した。鍋の中は真っ赤になった。だんだんと、らしくなってきたのではないだろうか。
 しばらくの間、オウケンと鍋の中を眺めていた。沸々と煮えてきたころに、塩と胡椒を——やはり目分量で——入れ、オウケンと味見をした。鶏肉の脂と野菜の甘みが溢れていて、美味しかった。
 最後に、「乱切り」がわからなかったので、ズッキーニを等分に切ってバジルと一緒に鍋に投げ込んだ。煮込んでいる間にとっ散らかった台所をできるかぎり片付けて、水の張った桶でまな板と包丁を洗い、完成を待った。
 鍋の蓋を開けると、食欲をそそるにんにくの香りが台所に広がった。鍋の中で鶏肉が転がり、野菜はくたくたに煮えている。スープ皿に盛り、黒麦のパンと一緒に食卓に並べた。
「無事に完成ですね」
 椅子に座り、オウケンは白い歯を見せて笑った。いただきます、と声を揃える。いつもひとりで食事をしているから、そう口にするのは久しぶりだった。弟と食事をするのも久しぶりだった。
 皿の中で湯気を立てる鶏肉にフォークを刺す。持ち上げると、鶏肉はずいぶん大きかった。火傷しないように口に含む。トマトの酸味はほとんど感じなかった。ハーブのほのかな香りが鼻に抜け、味見をした時以上の野菜の甘みと、少し強い塩気が口いっぱいに広がる。一口、二口と食べ進めた。大きさの違うタマネギも、分厚いズッキーニも柔らかい。身体があたたまってきた。
「ちょっと塩を入れすぎた気もしますが、美味しいですね」
「張り切って作った甲斐がありましたね。兄者にも食べてほしいです」
「その前に全部なくなりますよ。お腹空いてるでしょう、あなた」「わかりますか」
「わかりますよ。おかわりは何杯でもどうぞ」
「では、遠慮なく」 

 弟と近況について話しながら食事を楽しんだ。弟と囲う食卓は、燭台に灯った火と同じくあたたかかった。不恰好な具材でも、濃い味付けでも、はじめて自分達で作った料理は特別美味しく感じられた。料理とは、奥が深い。慣れもあるのかもしれないが。
 会話は弾み、鍋が空になって、夜が更けていった。