うつろい逆回り

「ごめんね」
 身体を起こしてベッドの縁に移動した立香は、消え入りそうな声で呟いて、肩を窄めて二の腕を抱いた。
「何故謝る」
 彼女の薄い背中の中央で連なる真珠のような背骨を見据えたまま、テスカトリポカは咥えた煙草に火をつけた。ひどく白けた空気が炙られ、細い煙が一筋立ち上った。
「あんなに時間を掛けてくれたのに、反応がなくてつまらなかったでしょう」
 振り返りもせずに立香は言った。
「そうは思っていない」吸い込んだ煙を吐き出すと、身体の中で燻っていた劣情が冷めていくようだった。「盛った雌猫のように鳴かれたら萎えていた」
「不感症なんです、わたし。あそこだって、濡れていなかったでしょう?」
 告白を聞いたテスカトリポカは、なにも言わずにナイトテーブルの上の灰皿に煙草の先を押し付けた。
「大好きな人とのはじめてのえっちだったのに、台無しにしちゃった」
「トラウマでもあるのか?」
「初体験の時、痛くて……ヘタクソって言われて……それ以来、うまくできるかなって……気持ちよくなってもらえるかなって考えちゃって、緊張しちゃって……」
 灰皿の中で、赤々とした火は立香の声のように弱々しく明滅して消えた。
「オマエが罪悪感を感じる必要はない」
 肩が小さく震えて「どうして?」立香は振り返った。眸はやけに潤んでいるくせに、いつものような生き生きとした灯火は宿っていない。
「まずはピロートークといこうか」
 片腕を伸ばすと、立香はおそるおそるとでもいうように腕の中に収まり、テスカトリポカと同じくヘッドボードへもたれかかった。
「ストレスに晒されて緊張している状態じゃあ、セックスの最中にリラックスして快楽を受け容れるなんてことはできない」彼女の前髪にキスを落として、鼻先に吐息が掛かる距離で彼は続ける。「覚えておけ、お嬢さん。女が一方的に奉仕する必要はない。情を交わした男と女なら殊更な」
 テスカトリポカは立香を肩から抱き寄せ、さらに距離を詰めた。隙間がなくなって、まだ火照っている肌が密着する。先ほどまで組み敷いていた裸体は、色白で、華奢で、柔らかい。
「男は昂れば女を抱ける。道具のように扱うこともできる。蹂躙することもできる。オマエを抱いた若造が〝ヘタクソ〟だっただけだろう」
「で、でも、濡れてなかったでしょう?」
「濡れていた。指にねっとりと絡みつくくらいにな」
「……嘘……」
「オマエは自分が不感症だと思い込んでいるだけじゃあないのか?」
「……そう、なのかな……」
「オレのナニが挿った時、痛かったか?」
「痛くなかったです。おっきいから、お腹の中が圧迫される感じはあったけど……わたし——不感症じゃ、ない?」
 長い睫毛に囲われた眸が、きらきらと輝きを取り戻していくのをテスカトリポカは見た。
「ねえ、テスカトリポカ」
 たおやかな手が男の厚い胸に添えられる。
「抱いてください。もう一度。わたし、ちゃんとあなたを感じたい」
「なら、仕切り直しといこう」
 体重の移動を受けたマットレスが深く沈み、ベッドの足が軋む。仰向けになった立香の赤毛が枕に広がる。
「テスカトリポカ」被さる影に身を委ね、彼女は最愛の男の名前を呼んだ。「好き、大好きです。誰よりも」
 親愛を紡ぐ唇が塞がれて、重なった影が夜の帳に溶け、蕾だった快楽の赤い花が咲いた。