信じすぎると裏切られるかもしれない。だが、信じないと自分が苦しむことになる。
――エーリッヒ・フロム
仲間を護る盾となり、敵を切り裂く刃ともなるその男の戦いを間近で見た時、さぞや美しい生き方をしてきたのだろうと思った。
清廉で、気高く、正義を掲げ剣を振るい、悪を断つ。騎士道を重んじる堂々とした出で立ちに、思わず目を奪われた。影の中を歩いてきた己とは真逆の生き方だ。
同族の男の背中は、あまりにも眩しかった。
男の名は、バウタオーダという。
兜に縁取られた精悍な顔立ちからは意志の強さが見て取れた。慇懃な態度からは真面目さと誠実さ。芯のある滑らかな声は矜持を紡いだ。誰からも信頼され、頼られる存在。まさに、聖騎士にふさわしい。
今でこそ騎空団の一員と言えども、悪行に手を染め、真っ当な生き方をしたことがない元盗賊である己が関わってはいけない。そう思って過ごしてきた。
だから、或る時船尾で彼に話しかけられた時はすぐにでも逃げたかった。
「ガルマ殿は常より武器の手入れを怠らないと伺いました。我々の装備に不備がないことを確認してくれていたのは、あなただったのですね」
ありがとうございます、と頭を垂れたバウタオーダを前に、たじろいでしまった。
「礼を言われることではない」
バウタオーダが顔を上げた。透き通った青い眸は、真っ直ぐにこちらを向いていた。
「武器の手入れなど、誰でもできることだろう」
「誰もができることではありません。怠ればいざという時に命に関わります。曇りひとつない刃を見ては、いつ、誰が手入れをしているのか、不思議に思っていたのです」
「……趣味なんだ」
どうしていいかわからなくて、ぽつりと吐露する。
「趣味」バウタオーダの眸が瞬いた。「武器の手入れが、ですか?」
「ああ。銃はとくに時間をかけて確認する」
武器の手入れは物心ついた頃からやっていた。愛銃の手入れは一日たりとも欠かしたことはない。
なにも考えなくてすむから。なにも見なくてすむから。
「ガルマ殿、もしよろしければ、私に銃の手入れについておしえていただけませんか?」
「……は?」
「最近この騎空団にも人が増えました。その分武器庫にもそれなりに武器が増えてきたでしょう。私も団員として皆さんの役に立ちたいのです。それに、ガルマ殿おひとりでは、負担が大きいかと」
――なんて、お人好しなんだ。
武器の手入れが負担だと思ったことはなかったが、断る理由もなかった。
「好きにするといい」
バウタオーダに背中を向ける。
「ガルマ殿」すぐに呼び止められた。「どちらへ?」
「武器庫だ」足を止めずに答えた。
「私もご一緒します」
吹き抜ける風が、嬉しそうなバウタオーダの声を運んできた。
彼の気負いしない話しぶりと、柔和な態度に安堵感を覚え、ふたりきりでも緊張もせず、息詰まることもなかった。
話しかけてくるのは、もっぱら彼からだった。「好きなことはなにか」「苦手なものはなにか」といった当たり障りのない質問を交え、こちらのことを知ろうとしているようだった。
誇り高き騎士と元盗賊が交流するなど、考えられなかった。後ろめたさが拭えず、バウタオーダとの交流はその日限り、武器庫の中だけにしたかったが、その日以降、船のどこにいても、彼はこちらに気付くと声を掛けてきた。
――なぜ、どうして、オレに構うんだ。
そんなおそれに似た気持ちとは裏腹に「ガルマ殿」と彼に呼ばれるのが心地好く感じてしまうようになっていた。
もう少し、光にあたることを許されるだろうか。
「ああ、ガルマ殿、ちょうどよかった」
その日、バウタオーダは甲冑ではなく真っ白なシェフコートを着ていた。ぴんと立ったトックブランシュを被り、より背が高く見えた。彼が厨房に立つ時のスタイルだ。
「食事当番か?」
「ええ。ですが、なにを作ろうかまだ決めていないのです。ガルマ殿はなにか食べたいものはありますか?」
「……特には。なんでもいい」
「そうですか。そう言われると……悩みますね」
バウタオーダは顎に手を添えて俯きがちに足元に視線を落とした。
ほんとうに、なにも浮かばなかった。食事に対する楽しみもない。腹に入れば同じだ。「ルリアにでも訊いてみたらどうだ?」
バウタオーダは弾かれたように顔を上げた。
「そういえば、食事の席であなたを見たことがありませんね。皆と食事を取らないのですか?」
痛いところを突かれて、顔を逸らした。
「オレがいると座がしらけちまうだろ」
「そんなことはありません。仲間と語り合い、食事をするというのは、とても有意義なものですよ。より美味しく感じますし、互いを知る機会です。折角です、よろしければ今日は一緒に食べませんか?」
バウタオーダが頭を傾け、微笑んだ。戦場では勇猛果敢な騎士も、こんな顔をするのか。この柔和な微笑が人を安心させるのかもしれない。
「あなたのことをもっと知りたいのです」
突風を真正面から浴びたようだった。バンディットスカーフの下で唇を真一文字に引き結んで、俯く。
これ以上、自分のことを知られたら、足元に引いた超えてはいけない線を越えてしまう気がした。損得勘定なしに人と付き合ったことはなかった。腹の探り合いをしてきた。真綿に針を包む態度で接するのが精々だ。誰一人として心を開いたことがなかった。人を、世界を、拒んできた。
一方で、温もりを求めている自分がいる。盗賊時代から奪えなかった唯一のものを欲して手を伸ばしては、届かずにいる。
「遠慮しておく。どうせ腹も空かん」
バウタオーダがこれ以上なにか言い出す前に背中を向けた。一度名前を呼ばれたが、聞こえないふりをした。
ランタンを机に置いて、椅子に寄りかかり、銃を分解し、入念に手入れをして組み立てる――ひとりで作業をするのは久しぶりな気がする。斜め前に置かれた椅子を一瞥して、そこはかとなく思った。
武器庫にはソルベント(バルツ公国でしか入手できない貴重な油で、銃身に残ったわずかな銅も落としてくれる)のにおいが漂っていた。ガルマは、このにおいが好きだった。愛銃を組み立て終わり、一息ついた時、控えめなノックが静寂を破った。
視線を手元から入口へ向ける。
「開けていただけませんか」
ドア越しのくぐもった声はバウタオーダのものだった。
腰を上げ、壁に立てかけた槍の横を通って、ドアに歩み寄り、ノブに手を掛ける。ドアが開くと、新鮮な空気が流れ込んできた。外は、すっかり夜の帳が下りていた。
「ありがとうございます」
バウタオーダはまだシェフコート姿だった。トックブランシュは被っていない。両手にそれぞれ湯気の立つ深い椀を持っている。淵にはスプーン。微風が食欲をそそる香りを鼻先に運んできた。
「……ルリア達と食わなかったのか」
「はい。今日はあなたとご一緒しようかと。失礼しますね」
開いたドアの隙間に身体を滑り込ませるようにして、バウタオーダは室内に入った。
「物好きな奴だな、お前も」
ドアを閉め、ゆっくりと振り返る。聞こえているのかいないのか、バウタオーダは曖昧な微笑みを浮かべたまま、銃のパーツが散らかった机に椀を置いて、いつもの席に座った。
「さあ、食べましょう」
促されて椅子に腰かけると、ランプの明かりに照らし出された二人分の影が交わった。
「新鮮な魚が手に入ったので、アウギュステの漁師に教わった煮込み料理を作りました。口に合うといいのですが」
「魚はあまり食ったことがない。香辛料が入っているな? 香りがいい」
顔の半分を覆っていたスカーフに指を引っかけて首元までおろすと、バウタオーダが「あっ」と小さな声を漏らした。
「……なんだ?」
「いえ、その、あなたの顔をはっきりと見たのははじめてですから……」
「ああ」曖昧に二、三度頷いてみせる。「ここにいる奴らには見せたことがないな。お前がはじめてだ」椀を引き寄せ、魚油の浮いた汁を啜る。「うまい」
「ガルマ殿」
「うん?」
「私に、心を許してくださったということですか?」
利き手にスプーンを手にしたまま、バウタオーダは言った。
「そうだな」椀を傾け、また一口啜る。「自惚れていいぞ」
「自惚れるなんて……ですが、嬉しいです」
啜った汁が熱いふりをして、目を細める。
「お前がそばにいると、何故だか知らんが、落ち着く」
「私も、あなたのそばにいると落ち着きます」
バウタオーダの眸が潤んでいるように見えた。
食事を終え、魚の骨の入った椀を机の片隅に置いて、少し、話をした。
「今夜中には次の島に着くようです。自然の多い美しい島だそうです。ガルマ殿、もしよろしければ、明朝、私と一緒に散歩に行きませんか?」
「散歩か……」
以前、バウタオーダの趣味が散歩で、特に、朝の散歩が好きだと言っていたことを思い出した。
「朝の散歩は大変気持ちがよいものですよ。清々しい空気を吸えば爽やかな一日がはじまります」
「わかった。いいだろう」
朝は苦手なんだがなと結ぶと、バウタオーダは声を上げて笑った。つられて頬を崩す。今までにないほど、穏やかな気持ちになった。
島の宿屋を出ると、朝日の中に佇むバウタオーダの背中を見付けた。白いTシャツに褐色のリブパンツ姿だった。重装備の騎士のラフな格好をはじめて見た。
「早いな。待たせたか」
「いえ、今来たばかりです」
柔らかな朝日に照らし出されたバウタオーダの肌は、濃い色の肌と髪を持つドラフ族にしては珍しく、白く透き通っている。後ろに撫でつけ、襟足で跳ねた金髪も同じく希少だ。最初は物珍しい目で見ていたが、今はもう見慣れた。
「小鳥の囀りが可愛らしいですね」こちらに向けられたバウタオーダの眸は、空と同じ色をしている。
「朝日も気持ちがよいです」
「オレには眩しすぎる」
「まだ目が覚めていないのでしょう」
喉の奥で愉快そうに笑うバウタオーダと並んで煉瓦敷きの歩道を歩いた。道脇の草は朝露で濡れている。
陽光を浴び、澄み切った朝の空気を吸い込むと、胸の奥で芽生えた感情が暴かれてしまうようだった。
足を止め、風にさざめく茂った木を見上げる。太い幹から四方に向けて伸びた枝と枝の間に、鳥の巣が見えた。それと、そこからひょっこり顔をのぞかせる、小さな、小さな雛。
「ガルマ殿? なにか――」
「なあ、お前は何故、ここまでオレに構うんだ?」
バウタオーダが立ち止まって振り返ると同時に問う。
涼し気な沈黙がふたりの間を吹き抜けた。
「仲間……だからです」
もっとも妥当な答えだった。平凡で、期待のない答え。
雛が鳴いた。
「あなたは強い。しかし、誰もひとりでは生きてはいけません」
「オレは悪人だ。お前みたいな善人は、オレに関わってもろくなことがないぞ」
「いいえ。あなたは根っからの悪人ではないはずです。あなたは、哀しい目をしている」
「そ――そんなこと言ってくれるな。オレは奪うことしか知らない悪人だ」
「今まではそうだったかもしれませんが、今のあなたは違うはずです。以前あなたと一緒に戦った時、あなたは傷を負った私を庇ってくれました。悪人なら、そんなことはしません」
「よせ、よしてくれ、オレは……」
言葉を無くして拳を強く握り締める。
「なにを、おそれているのですか?」
バウタオーダの声が心に肉薄する。影の差す、最も暗い所へ。
「他人を信じて裏切られるのが怖いといえば、嗤うか?」
首の後ろの結び目を解き、スカーフを剥ぎ取った。新鮮な朝の空気が肺に流れこんでくる。
「ガルマ殿、私はあなたを信頼しています。好意を持っているのです。決してそのような野蛮なことはしません。だからどうか、私に背中を向けないでください」
朝日に濡れたバウタオーダの相貌は、哀しみに満ちていた。
互いになにも言わなかった。風が一陣吹き抜けた。バウタオーダの肩口で跳ねた髪がなびく。
瑠璃色の羽を持つ鳥が一羽、頭上を音もなく滑空し、巣の淵に止まった。親鳥だ。雛が忙しなく鳴きだした。
「私はあなたを護りたい。あなたの憂いが消えるように」
「オレはお前を奪いたい」
バウタオーダの色の薄い眸が瞬いた。
「その意味を、はっきりと仰っていただけませんか?」
「誰よりも近くでお前を見ていたい。護ってくれとは言わん。オレの近くにいてくれ」
「それは、仲間として……いえ、友として、でしょうか」
「みなまで言わせるな。……お前が欲しい」
みるみるうちにバウタオーダの頬が紅潮していった。白い耳まで赤くなっていく。
「……自惚れても、いいでしょうか?」
「ああ」
一度大きく頷いてみせると、バウタオーダは口の端を緩めた。
「あなたが私の前でそのスカーフを外した時から、期待していた自分がいました」
「よせ。もうなにも言うな、こっぱずかしいだろ」
「前から伝えようと思っていましたが、私はあなたの目が好きです」
「……おい、バウタオーダ」
じろりと一瞥すると、彼はそっと歩み寄ってきて、隣に立った。せっけんの香りがした。
「これからも共に、邁進しましょう。あなたがいれば私はもっと強くなれる」
「お前の背中はオレが護る。オレより先に死んでくれるなよ」
「その言葉、そっくりそのままお返ししますよ」
心の底から信頼できる者がいる。護りたいと思える者がいる。
それだけで、生きる理由にふさわしいと、ガルマは思った。