ケチャワチャと少女

 人騒がせないたずら者たち

 風で揺れる木々の音と鳥の囀りに混じってケチャワチャの耳に届いたのは、聞いたことのない、不思議な音だった。小川のせせらぎのように優しくて、兄の鳴き声のようにリズム感があって、聞いていて心地が良い。
 ケチャワチャは食事を中断して、音の正体を探るべく、森の中を駆けた。
 小さな小さな音を頼りに耳を波打たせ、四肢を弾ませるうち、危うく人里まで降りてしまうところだったか、どうやら音は森の入口から流れているようだった。

 森の入口は人間によって切り倒された木々が多いことをケチャワチャは知っていたから、警戒して歩を進めた。人間の臭いがしてすぐに、ケチャワチャは木に登って気配を消して音の出処に近付いた。
 生い茂る木々の隙間からこっそりと顔を覗かせると、そこには、小さな人間が一人いた。まだ成体になっていない。幼体だ。雌だろうか。人間の幼体を「わらし」と呼ぶのだと、兄が教えてくれたのを思い出した。
 藍色の薄っぺらい布切れを纏った童は、切り株に腰を下ろして、何か咥えていた。

 ケチャワチャが追ってきた音は「細長い木の筒」から紡がれているものだった。よく見ると、童は両手でそれを横にして、指先で摘まむように持ち、端に唇に添えていた。どうやら「筒」を食べているわけでもないらしい。息を吹きかけているのだろうか。
 ケチャワチャは口を半開きにして、逆さまになった視界のまま、じっと童を見詰めた。

 どれくらい時間が経ったかわからないが、童はごほごほと大きく噎せて「筒」を吹くのをやめてしまった。
 ケチャワチャは音が聴きたくて、ずるずると木の幹を下る。
 童と目が合った。
 童はうまく息が出来なかったからか、顔を真っ赤にさせていた。
 ケチャワチャは四肢を地面に付けて童の様子を伺った。

 荒っぽい呼吸が落ち着くと、童は大きな丸い目を潤ませて、小刻みに震え出したので、ケチャワチャは首を傾げた。早くそれを吹いて欲しいのに、何故続けてくれないのだろうかと。
 ケチャワチャが緩慢に近付くと、
「た、食べないで……」
 童は両目から水を流し始めた。
 ケチャワチャは訳がわからなかったが、漸く、成熟していない人間が怯えているのだと気付いた。

 ケチャワチャはキョロキョロと辺りを見回して、すぐそばに、果実の成った木があるのを見付けた。
 ドタバタと走って、あっという間に木を登り、鼻先で枝先の果実をもいで、怯えて縮こまった童の元に戻った。鼻先で絡めた果実を、濡れた顔に近付ける。
「あ……う……」
 掠れた声を上げ、童は膝の上に筒を置くと、恐る恐る果実を両手で包んだ。
 ケチャワチャはぺたりと座り込み、長い鼻で筒を包み、童の顔の前で左右に鼻を振った。
 童の黒い瞳が筒を追って左右に揺れる。
「笛の音が聴きたいの?」
 童は目を瞬かせた。
 笛というのは、この筒のことなのだなと、ケチャワチャは嬉しくなった。
「モンスターなのに、変なの……」
 鼻からも水が流れ出ている童を見て、体調を崩した時の自分と同じだと、ケチャワチャは愉快になった。
 前腕部を覆う布でごしごしと顔を拭くと、童はケチャワチャの鼻から笛を取り、また吹いてくれた。
 緩やかな調べに、ケチャワチャは眠くなった。

 日が暮れた頃、童は「帰らなくちゃ」と切り株から立ち上がった。
「あんまり長い時間お外にいると、お爺様に怒られちゃうから」
 人里の方へ顔を向け、童は笛を抱えて項垂れた。
「ただでさえ、私は手の掛かる子供だから……」
 童は独り言のように言って、ケチャワチャの方へ振り向いた。またねと、どこか寂しそうに手を振る童の背中を見送って、ケチャワチャは鳴いた。
 今夜はぐっすりと眠れそうだと思った。

 翌日、寝床から耳を澄ますと、笛の音が聴こえた。
 ケチャワチャは自在に伸びる脇の表皮を広げて、巣を飛び立った。
 昨日と同じ場所に、童はいた。
 舞い降りたケチャワチャの姿を見て、童はぎょっとしていた。
 ケチャワチャは駆け出したいのを堪えて、童の元までゆったりとした足取りで近付き、童の前でぺたりと座り込んで歌うように鳴くと、童は唇を笛に添えた。
 小川のせせらぎと笛の音は、ケチャワチャを穏やかな気持ちにさせた。

 この音を兄にも聞かせてあげたいという興奮にも似た気持ちに駆り立てられたが、兄は餌を採ってくると巣を出てから二日も戻ってこないから、残念だと思った。
 兄が何故帰ってこないのかケチャワチャにはわからなかったし、今はむつかしいことを考える余裕はなかった。

 兄は、その次の日も戻ってこなかった。
さすがに心配になって、ケチャワチャは童に会いに行くよりも先に、森の中を駆け回り、兄を捜すことにした。
 一人で眠るのはやはり淋しい。
 兄とくっ付き、温もりと鼓動を共有して、二人で夜に呑まれ、煌びやかな朝を迎えたいのだ。

 森の北まで飛んで、少し休もうと、拓けた岩場に降りた。他の大型モンスターがいないことを確認し、ゆっくりと灰色の塊の上に座り込む。
 新鮮な空気を吸い込んだ時、ふと懐かしいにおいがして、ケチャワチャは首を擡げ、辺りを見回した。
 これは、太陽のにおいだ。
 瑞々しい果実を照らし、花を育む、優しいにおい。これは紛れもなく兄のものだ。産まれた時からずっと一緒にいたからわかる。

 が——時々混じるこの、厭なにおいはなんだろう。母が縄張り争いに負けて巣に戻ってきた時に漂っていたものと似ている。鼻の奥を鋭く刺す、息が詰まるにおい。熟れ過ぎた果実が地面に落ち、そのまま放って置いた時のような、むせ返るようなにおい。
 ケチャワチャは鼻を上下に動かして、においの元を辿った。兄はどうやら、ずっと下の狭い岩と岩の間にいるようだった。
 ケチャワチャは脇の下の表皮をはためかせ、飛び降りる。

 生臭い風が身体を撫でていく。
 安定した足場から岩場の間に落ちる途中、オレンジ色の塊が見えた。兄だと気付いて鳴いたが、返事はなく、すぐに異変に気付いた。
 小さな昆虫が、兄の身体にたかっている。
 兄は、赤い色をした葉っぱの上に横たわっているように見えた。近づいてみると、それは葉っぱではなく、乾いてこびりついた液体だった。そばには、萎びた果実に似た赤い塊が無造作に落ちている。

 兄は眠る時と同じく、頭の右側を下にして、四肢を投げ出していた。半開きの口からだらりと舌が飛び出している。細長い切れ込みのように開かれた目に、光はなかった。
 黒い昆虫が、目の上を滑るように蠢いている。
 ただ寝ているだけかと思って前脚で揺すってみたが、兄は酷く冷たく、硬かった。
 ふわふわだった毛並みは今はごわごわしていて、乾いた赤い液体がべったりとこびりついている。
 下腹部には、ぽっかりと穴が空いていた。
 穴の中は、なんにもない。空洞だ。
 兄ちゃん——。
 ケチャワチャはぴいぴい鳴いた。
 兄は、母と同じになってしまった。
 こうなってしまったら、その場所から離れなくてはならない。危ないから。他のモンスターが来るかもしれないから。
 そう教えてくれたのは兄だ。
 けれどケチャワチャは、項垂れたままそこから暫く動けなかった。尻が岩に貼り付いてしまったように、身体が思うように動かなかった。重苦しい厭なものが腹の底に溜まっていって、目玉の奥が熱くなって、小さな身体が震えだした。

 ギィ。
 ケチャワチャの本能を刺激したのは、鋭く短い鳴き声だった。
 ギィ。
 顔を上げて頭上を仰ぐと、兄と同じ色をした貧相な体躯の肉食モンスターが、先程までケチャワチャがいた崖の上から鳴いていた。
 ギザギザの牙。
 意地悪く釣り上がった目。
 歪に飛び出したトサカ。
 ケチャワチャは震え上がった。
 あいつらは群れで暮らしていて、集団で襲い掛かってきて、毒で獲物を仕留めるから気を付けるのよと、昔母が教えてくれたのを思い出したからだ。
一頭見たら、そばにはたくさん仲間がいて、ボスもすぐにやってくる——。

 ケチャワチャは固まっていた四肢を必死に動かして、その場から一目散に逃げ出した。
 
 ここは奴等の縄張りだったのだ。
 崖の下は暗く細い道が続いていたが、岩場を駆け登り、飛んで逃げれば大丈夫——。
 奴等が怒号を発して追ってくる。
 ちらりと後ろを振り向くと、数え切れないくらい増えていた。
 兄の姿が、奴らに埋れてしまった。
 道はどんどん細くなって行き、ついに行き止まりになってしまったが、ケチャワチャにはあいつらと違って、高い場所に登るのが得意だ。それに翼がある。
 岩壁をよじ登り、やっと平たい岩の上にたどり着いて、慌てて空を飛んで逃げた。
 怖くて怖くて、暫く振り返ることができなかった。
 早く童のところに行きたかった。

 住み慣れた東の森に戻り、ケチャワチャは、もう兄には会えないことを確信した。
 兄はきっと、あいつらに負けてしまったのだ。臭く、冷たく、硬くなってしまったら、食われるしかない。そう教えてくれたのも兄だ。
 だから、仕方ないことなのだ。
 そうやって生きていくしかないのだ。
 当たり前のことなのに、苦しいのはどうしてだろう——。
 ケチャワチャは、童のいる場所までトボトボと歩きながら、兄のことを考えた。考えれば考えるほど、苦しくなって、考えることをやめた。

「今日は、元気ないね」
 童はケチャワチャの頭を優しく撫でて、そう言った。
 ケチャワチャは童の目をじっと見つめたまま、言葉の意味がわからなくて首を傾げた。  

 童の目は、キラキラとしている。太陽の光に濡れた水面ように。
「疲れちゃったの?」
 母や兄とは少し違うすべすべの手は、顔の横をこちょこちょと擽ったり、鼻をさすってくれた。ケチャワチャは喉を鳴らし、目を閉じる。
 ぽろりと、目から何か落ちた。
「泣いてるの?」
 童の指が、ケチャワチャの目尻に触れる。
ケチャワチャが目を開くと、童は眉を八の字に垂らして、頭を傾けていた。
 ケチャワチャは、自分の目から流れる水がなんなのかわからなかった。
「悲しいことがあったんだね」
 童は身体を乗り出して、ぎゅっとケチャワチャを抱き締めた。
「悲しい時はね、いっぱい泣いていいんだよ」
 悲しい。
 泣いて。
 ケチャワチャには人間の言葉はわからなかったが、自分よりずっと小さな童の腕の中で、目から水が流れ出るのが、止まるまでじっとしていた。
 兄のことを思い出すと、水はまた流れ出した。

「あなたは、モンスターっていうより、妖精さんね」
 日差しの下で過ごしている時、童は若葉の上に寝転がって、思い出したように呟いた。
童の隣で、ケチャワチャも若草の上に腹ばいになり、小さく鳴いた。
「私ね、病気がちで、村にも友達がいないの」
 童は目を細めて、何処か寂しそうに言った。
「皆元気に走り回って、鬼ごっこしたり、ハンターごっこしてて、私も本当は皆と遊びたいんだけど……今は、あなたとこうして一緒にいる方が、楽しいなって」
 ありがとねと続けて、童はケチャワチャの耳をむにっと摘まんだ。
「私が大人になっても、遊んでね」
 ケチャワチャは童の身体に頬を押し付けた。突然童がゴホゴホと咳き込んで、ヒュウヒュウと喉から空気を洩らしたので、いつもするように鼻で背中をさすってやった。
「ありがとう、ごめんね」
 童はゆっくりと呼吸を繰り返し、やがて眠りに落ちた。ケチャワチャは、童と抱き合って眠るのが好きだった。
 童は日が暮れる頃には帰ってしまうが、たとえ巣で一人になっても、昼間過ごした時間を瞼の裏に浮かべて丸まって眠ると、不思議と寒くなかった。

 その日、童は来なかった。
 雨が降っているからだ。
 雨が降る日は童は森に来ないことを知っていたけれど、微かな期待を胸に森の入口に行ってみた。
 入口には、荒れた景色があるだけだった。
 灰色の空から降り注ぐ雨は冷たくて、あっという間に体温を奪われた。遠くの空で雷も鳴っている。川も今日は流れが速く、透き通っていた水も、今は土と同じ色だ。強く吹く風が、モンスターの鳴き声みたいだった。
 早く晴れればいいのに。
 そうすれば、また童と遊べる。
 ケチャワチャは巣で、蓄えた餌を食べて、眠った。

 翌日も、その次の日も、童は来なかった。
 空は綺麗な青なのに、童は来なかった。
 ケチャワチャがいつものように森の入口にいっても、小鳥の囀りしか聞こえない。切株に座り込んで待ってみたこともあるが、いつまでたっても童の気配はなかった。
 それでもケチャワチャは、眠り、目が覚める度に足を運んだ。

 童が来ない日が続いたある日、人間が二人、童がいつも座っていた切り株の前にいた。
 大柄な老いぼれと、小柄な雌。
 雌はあの笛を持っていたし、童にそっくりだったので、ケチャワチャは、一瞬童が成長して戻ってきたのかと思ったが、声がまったく違うことに気付いて、再び警戒した。
「あの子は、この場所が好きでしたからね」
 雌はそう言ってしゃがみ込み、切り株の根元——何故か盛り上がっている——に、童が持っていた笛を置いた。老いぼれも、のろのろとした動作でその隣に花束を置いた。
「この森には妖精がいると言っていたな」
「ええ。病弱で友達もいませんでしたし、私も最初は、あの子の妄想かと思っていました」
「笛を吹くと喜ぶと言っていたが、あの子は、何と遊んでいたんだろうか」
「さあ、どうでしょう……」
 二人の人間は、暫くそこから離れなかった。

 かなかなかな……。
 何処かで、夕暮れの訪れを知らせる虫が鳴いている。
 人間の気配が消えて漸く、ケチャワチャは影を揺らして、切り株の前まで歩いた。
 どうして、あの人間達は盛り上がった土の前で嘆いていたのだろう。
 花を添えたのだろう。
 何故、童の笛を置いていったのだろう。
 童はいつ此処に来てくれるのだろう。
 ケチャワチャは、土山の前で項垂れた。
「またね、妖精さん」
 そう言ってはにかみながら手を振った童の姿を思い出して。
 ケチャワチャは森の入り口に顔を向け、スピスピと鼻を鳴らした。
 もっと童と遊びたかった。
 柔らかな日差しの下で一緒に果実を食べ、踊り、時に微睡んで、くっついていたかった。
 けれど——童にはもう会えない気がした。
 きっと、遠くに行ってしまったのだと思う。兄のように、ケチャワチャを置いて、手の届かない場所に行ってしまったんだと思う。

 童と約束した「明日」は永遠に来ない。
 後ろから風が一陣吹き抜けて、ケチャワチャの目から、ぽろぽろと水が零れた。
 一人ぼっちになってしまった——。
 嵐に遭遇した時のような気持ちになって、ケチャワチャは、土山の前で蹲った。
 悲しい時はね、いっぱい泣いていいんだよ——。
 ケチャワチャは童の言葉を思い出した。泣く、というのは、きっと目から水を流すことなのだなと気付いた。兄の時は、童が強く抱き締めてくれたが、今この気持ちを分け合う相手はいない。
 季節が巡って、あの木にまたオレンジ色の実がなっても、童は来ない。待ち続けても、会えない。
 果実を半分ずつ分け合って食べることも、もうないのだ。

 ケチャワチャは、目から溢れ出る水にも構わず、一匹で果実を食べた。
 熟れている小振りな果実は蕩けるように甘い筈なのに、塩辛く、苦かった。

 青い空に浮かぶ太陽と同じ色をした果実を食べる者は、もういない。