廊下からした靴音に、微睡んでいた意識が一気に覚醒した。臥位の状態から片手を突いて身体を起こすと、寝台が軋んだ。
病室の入口の扉を凝視する。この足音は、老いぼれ医師のものではない。もっと若い。足取りもしっかりとしている。
果たして、近付いた足音は部屋の前で止まり、静けさは控え目に扉を叩く音で弾けた。
どうぞ、と、返すと、一拍置いて扉が開く。穏やかな眠りを妨げる訪問者は、医師でも、兵士でもなかった。
「鶴見中尉殿……」
喉から出たのは、己でも驚くほど掠れた声だった。
何日か振りに見た上官は、目笑し、後ろに回した手で静かに扉を閉めた。
「起きていたか。具合はどうだ」
「まだ腹と足が痛みます」
「そうか」
寝台の横まで寄ってきた上官を見上げる。
此方を見詰める視線は、威圧的でもなく、かといって、死の淵を彷徨った部下に対する慈愛もない。感情が含まれていないのだ。
ただ、見下ろしている。両の眼で。此方を。
この感情を映さぬ目が――嫌いなのだ。
目は口ほどに物を言うというが、彼の場合は、目を見たところで何を考えているのか汲み取れない。寧ろ、彼に見詰められることで、此方の腹の内を見透かされているような気がする。
それに、両目が瞬くのを見たことがない。剥き出しになった肉色の組織に、白目と黒目が滑稽なほど目立つ。気味が悪い。
「思ったよりも回復が早くて良かった。不死身の杉元が、私のもとにもいたか」
「身体は、丈夫ですので」
聞きたくもない名前に、腹の底から形を成さない黒い感情がふっと沸く。上官を睚眥しないようにと顔を伏せると、肩に手が乗った。
「今は療養することだけを考えればいい。何故、そんな怪我をして戻ったかを問い質そうとは思っていない」
「……痛み入ります」
――ほんとうは、何故俺が単独で行動していたのか訊きたいくせに。
肩から離れた手を追うように顔を戻すと、互いの無機な眼差しが上と下でぶつかった。
この男の眸に光が伺えないのは、前頭部に固定された銀の覆いの所為だろうか。それが陰を作り、底のない井戸のような、暗澹たる双眸を生み出しているのか。
浅く息を吸って吐き出すと、肋が痛んだ。顔を顰めて脇腹を摩る。掌が熱い。
「尾形」
名を呼ばれ、再び視線を上官に戻す。
間。
此方の顔を覗き込む眸は、何も映してはいない。それでも真っ直ぐに彼を見据え、言葉の続きを待った。
整った口髭の下で薄い唇が開く。
「熱もあるのだろう。ゆっくり休め」
片手をひらりと振って、中尉は踵を返した。こつり、と、小さな靴音が耳朶を打つ。
「ああ、鶴見中尉殿」
去りゆく、見慣れた背中を呼び止める。
彼は足を止めて緩慢に首を巡らせた。暗い眸が此方を向く。
やはり、何も見ていない。
「次はいつ、見舞いに来てくださいますか?」
小首を傾げると、彼の目が一瞬細まって、
「お前が望めば、いつでも」
抑揚のない声が届いた。
また、一人になった。
音も立てずに閉まった扉から、病室の西側に設けられた小さな窓へと視線を移す。
「では、もうここで会うことはないでしょう」
独りごちて、窓の向こうを凝視する。外は白く、何も見えなかった。
軍靴の底が板敷を踏み締めて遠ざかる気配を感じ、もう一度眠りに就こうと、まだ痛む身体を横たえた。
この眸の奥底でゆらゆらと燃える野心と欺瞞を、彼は見ただろうか?