とっくに日付が変わっていたが、読書会を終えても、立香はすぐに部屋に戻ろうとしなかった。
彼女はプトレマイオスを上目に見詰めると、ローブを引っ張って「まだ部屋に戻りたくない」囁き声で言った。
プトレマイオスは上向きの長い睫毛が震えるのを見下ろし、言葉の続きを待った。一拍置いて顔を上げた立香と視線が重なる。
「ねえ、プトレマイオス」
薄桃色の柔らかそうなふっくらとした唇から吐息が漏れた。
「わたしと悪いこと、しませんか?」
琥珀色の眸の奥には鈍い輝きがあった。
悪いこと。
プトレマイオスの脳裏をよぎったのは、かつて彼自身が戦場で神機妙算をあみだしたように、治世のために深謀遠慮を巡らせたように、陰謀を企てたり、謀り事を目論むといったことだったが、立香が他者を陥れたり、力を持つ者を失脚させたいと思っているはずがない。
それならば、いじらしい夜の誘いか。
――いや、違うな。
プトレマイオスは或ることを思い出し、「おまえの誘いに乗ろう」彼女の片手を取った。
立香に手を引かれて部屋を出て、連れられたのは食堂だった。
夕食時に賑わいを見せていた食堂は、深夜ともなると誰もおらず、夜間灯だけが灯っていて、静かだった。しかし、厨房の燈は点いていた。翌日の仕込みをしているのだろう。
「待っててくださいね」と促され、プトレマイオスは席に着いた。
椅子が軋む音すら大きく聞こえた。
しばらくして、立香は嬉しそうにトレイを手に戻ってきて、プトレマイオスの向かいに腰を下ろした。
甘い香りが鼻先を掠めた。トレイあったのは、湯気を立てるふたつのマグカップと、ドーナツと、シュークリームの載った皿だった。
「一緒に食べよ」
「これはたしかに〝悪いこと〟だな」
「うん。そう。今すごく〝悪いこと〟してるんですよ、わたしたち」
立香は声を潜めた。
「どっちがいいですか?」
「ドーナツをもらおう。以前美味いと話してくれただろう」
「覚えててくれたんだ。はい、どうぞ」
チョコレートと、数種類の砕かれたナッツがたっぷりかかったドーナツがプトレマイオスの前に置かれた。
「……これは?」
プトレマイオスはマグカップを覗き込んだ。コーヒーかと思ったが、それよりも薄い乳褐色の液体がなみなみと入っていて、表面には、白くて厚みのある四角いものがひとつ浮いている。
「ホットココアです。マシュマロ付き」
「なるほど」
テーブルに並ぶのは、プトレマイオスがはじめて口にするものばかりだった。
「いただきまーす」
シュークリームを頬張った立香に続き、プトレマイオスもドーナツにかじついた。もっちりとした生地に染みたチョコレートが口腔の熱でとろけ、甘さだけでなく、ほろ苦さも舌の上で広がった。ナッツのスモーキーな香ばしさと深みのある旨味がチョコレートに合う。ちょうどいい。もう一口頬張り、咀嚼して飲み込んでからホットココアを啜った。
「美味しい……」
「……美味いな」
自然と熱のこもった吐息がほうっと漏れた。
「こんな時間に甘いものを食べたら太るのはわかってるし、背徳感もすごいけど、我慢できなかったんです」
「吾も生前そういう夜があった」
「え、あなたも深夜に甘いものを?」
「無性にパンケーキが食べたくなってな。懐かしい。こっそりと食べたものだ」
「ファラオでもそういうことってあるんだ」
耳が熱くなるのを感じながら、プトレマイオスは目を伏せた。
「こういうのって、罪の共有になるのかな?」
口元に引き寄せたマグカップを傾けて、立香は言った。
「ずいぶんと甘い罪の共有だな」
プトレマイオスもホットココアを飲んだ。
「今夜のことは、みんなには内緒ですよ」
立香は立てた示指の側面を唇に押し当てて、ウインクをした。
「密契というわけか。いいだろう」
ふたりは見詰め合った。先に笑ったのは立香だった。
食堂の壁掛け時計の針は、午前一時を過ぎていた。マシュマロが溶けて、ふたりの罪深く甘い夜が更けていった。