子供の頃、大好きだった絵本があった。
ベッドの中でお母さんが何度も読み聞かせてくれたのに、ひらがなも読めないほど幼い自分を魅了した絵本のタイトルはもう思い出せない。表紙も挿絵も、ぼんやりとしか覚えていない。それでも、内容は覚えている。山に棲むウサギが花を集めて家を作る話だった。色とりどりの花で作られた小さな家で、ウサギは末永く幸せに暮らす……そんな話だった。
大好きな絵本だったのに、小学生になって読まなくなった。子供部屋の本棚にしまいこんだまま中学生になって、気が付けば絵本は本棚からなくなっていた。大事にしていたのに、どこにやったか心当たりがなかった。
それ以来、本棚の本と本の間や、片隅のちょっとした隙間を見るたびに、あの絵本を思い出す。もしかしたらまた見付けることができるのではないかという、微かな希望に似た期待を抱いてしまう。
オレンジ色の仄燈に照らし出された深夜の図書館は物音ひとつしなかった。深夜零時過ぎともなれば、管理人である紫式部もいない。
夜中に目が覚めて、なんとなく艦内を彷徨ううちに、本でも読めば眠くなるだろうと思ってここに来たわけだが、あまりにも静か過ぎる。自分の歩幅の狭い靴音すらも大きく聞こえる。
甘ったるい古い本のにおいを吸い込んで、本棚の間を真っ直ぐ歩いて——或る本棚の前で大柄な影を見付けて、びっくりして足が止まった。
老人の姿をしたプトレマイオスが、開いた本を片手に立っていた。黙読に集中しているのか、こちらに気付いていない。
「……プ、プトレマイオス?」
おそるおそる声を掛けると、一拍置いて彼は顔をこちらに向けた。上と下で目が合った。彼も驚いているように見えた。それもそうだ。夜更けの図書館にわたしがいるんだから。
「こんな時間に一体どうしたのだ。夜更かしか?」
プトレマイオスは本を閉じた。なめし革の分厚い本だった。
「夜更かしというか、起きちゃって……本を読めば眠くなるかなって思ってここに来たんだ。なにを読んでたの?」
首を傾げると、プトレマイオスは「若い頃に読んだ書を見付けてな。吾の気に入りの物語だ。つい懐かしくなって読んでいた」と莞爾と笑んだ。
「お気に入りの本かあ……」
「マスターにもそういった本はあるか?」
「わたし? わたしは……」
脳裏に、遠い昔になくしてしまった絵本が浮かんだ。
「うん、ある。小さい頃大切にしていた絵本があったの。でもいつからか読まなくなって……ずっと本棚にしまってた。大きくなって、いつの間にかなくなっちゃってて……」
俯くと、挿絵の白いウサギが瞼の裏に浮かんだ。
足元で伸びている影がプトレマイオスの影と重なっていた。
「どんな話だったか、覚えているか?」
穏やかな声音に顔を上げる。
「覚えてるよ」
「それならば聞かせてくれ。お前と、お前が大切にしていた書の話が聞きたい」
「うん」
プトレマイオスと並んで、テーブルと椅子がある読書スペースまで移動した。
革張りの三人掛けのソファの端にプトレマイオスは腰を下ろした。「おいで」と促されて、彼の隣に座る。
「冷えぬように」
肩にローブが被さった。
「ありがと」
ローブに包まりながら、距離を詰めてプトレマイオスに寄り掛かる。わたしも彼を暖めることができたらと思った。
プトレマイオス自身の膝に置かれている、様々なものに触れてきたであろう節くれだった老いた手に掌を被せると、彼の手が反転した。合わさった指が互い違いに交わって、体温が重なる。大きなプトレマイオスの手は、心地よい熱を帯びている。
眦を下げ、優しくわたしを見下ろすプトレマイオスの双眸を見詰めて、子供向けの御伽話を紡ぐ。古びた記憶の中のウサギは生き生きと跳ね回り、爛漫と花が咲き誇った。
今だけは、幼い頃のわたしのままだ。