光と影の行方

 願わくば、末永くな——そう結んで、彼は告死の剣を使えと言ってくれた。
 あの時の身震いするほどの感動と、胸に込み上げた感謝を忘れたことはない。あれ以来、彼は誰よりも近くにいて、わたしを見守ってくれている。芽生えた信頼は成長して大樹となり、尊敬という葉を茂らせ、親愛という果実を実らせた。
 山の翁という堅実で頼もしい存在と、いつしか共に在るのが当たり前になっていた。
 彼と末永く共にいたいと思う一方で、この旅の果てに今度こそ消えたいという彼の唯一の望みを叶え、生前、揺るぎない信仰心と確固たる意志のもと戦い抜いた彼の崇高な魂を救ってあげたいとも思う。
 いつか旅の終わりが来た時には、傍にいてあげたい。

 

 ナイトテーブルのランプのおぼろな燈に照らし出された山の翁は、寝支度を済ませてベッドに横たわるわたしを見て「よく眠るがよい」と穏やかな声音で言い、鎧から垂れ下がった外套を翻した。
 山の翁は、夜は艦内の見廻りに行ってしまう。そうして夜が明けそめる頃にわたしの元に戻ってくる。
 寂とした静寂がそうさせるのか、寂しくなる時がある。たまには甘えたくなってしまう。今みたいに。
 思い切って、ワガママだとわかっていながら夜警に行こうとする山の翁を呼び止める。
「今夜は、ここにいてください」
 不意を突かれたのか、首を巡らせた山の翁の髑髏の面の眼窩に宿る青い光が小さく瞬いた。
「本当は一緒に寝たいんですけど、それだと同衾になっちゃうのかなって……」
 マスターとサーヴァントとはいえ、わたしたちは男と女だ。ストイックな彼がおいそれと添い寝をしてくれるとは思っていない。
「眠るまででいいから、隣にいてくれませんか。手を握ってほしいです。だめ……かな……?」
 窘められるかもしれないという覚悟を決めて山の翁を上目に窺う。大柄な影が傾いた。彼は音もなくこちらに向き直った。
「骸同然の我が身を望むか、我が契約者よ。亡霊に温みを求めてはならぬ。貴殿を慕う者を呼ぶがよい」
「あなたがいいんです。あなたじゃなきゃ、だめなの」熱っぽく零し、山の翁をじっと見詰める。「お願い、キングハサン」
 ややあって彼は「請け負った」言った。
「今宵はしばし傍にいよう」
 山の翁は鷹揚とベッドに歩み寄ってきた。黒色の甲冑が擦れて無機な音を立てる。
 彼はわたしの方へ身体を向けて腰を下ろした。巨躯を受け止めたマットレスが深く沈み、ベッドの足が軋んだ。胸の辺りが温かくなった。
 手を差し出すと、籠手に覆われた大きな手に掬い取られた。当然だが、金属で保護された彼の手は冷たい。
「貴殿の手は斯様にも小さいか」
 静かな声だった。硬い指先がそっと手の甲を撫でた。俯いた山の翁のフェイスベールが揺れる。彼は今、どんな表情をしているのだろう。
「貴殿の手は、我が身には相応しくないほど温い」
「温めてあげます」
 ふっと笑って、ふた回り以上大きな手を握り返す。こうして彼にきちんと触れるのははじめてかもしれない。
 触れたい。触れてほしい。
 抱き締めたい。抱き締められたい。
「ねえ、キングハサン」
 ランプの仄燈に縁取られた髑髏の面が僅かに持ち上がる。視線がぶつかった。彼は言葉の続きを待っている。
「ぎゅってして、いいですか?」
 手を解いてゆっくりと身体を起こす。答えはない。膝を立てて山の翁と見詰め合って、名前を呼んで、なにも言わずに身体をぶつけるようにして抱き着いた。頭のうしろに手を回し、体重を預けるようにして密着して髑髏の仮面に頬を擦り寄せると、安心感が込み上げた。
 同時に、胸の奥に押し込めていた感情が噴き出して、わたしの心にぶつかって、亀裂を深くさせていった。
 後悔、苦悩、寂寞、絶望、不安、恐怖、焦燥、緊張、動揺、混乱、無念、罪悪感——感情の濁流は怒涛となって押し寄せ、鼓動を速め、呼吸を乱した。目の前がぐらぐらと揺れる。こんな時にいつもの”反動”がくるなんて……大丈夫だと自分に言い聞かせてみるが、このまま戻れないような気がして、怖くなって山の翁に縋り付いた。
 異変に気付いたのか、山の翁が身じろぎした。肩に掛かる外套の端を握り締めると、鼻の奥が痛くなって、目頭が熱くなった。
「お願い、傍にいて。わたしにはあなたが必要なんです。わたしを置いて消えないで」
 胸の奥底に残っていた切望が口から飛び出した。嗚咽が漏れて、頭の中が真っ白になる。

「契約者よ」

 一拍置いて放たれた山の翁の声は、瞬く間に平静さを取り戻させた。間遠に前後する背中に手が回る。優しい抱擁だった。
 鼻を啜って髑髏の面を正面から見据える。ぽっかりと空いた穴に並んだ青い光が明滅している。
「我が身は貴殿と共に在る。我らは一蓮托生。光と影は、どちらかが欠ければ存在できぬ」
 示指の側面が溢れた涙を拭い、大きな手に頬を包まれる。その手に頬を擦り寄せて目を伏せる。わたしはこの手が好きだ。彼が好きだ。
 あの時、旅の終わりに今度こそ消えたいと彼は言った。いずれ役目を終えたらわたしも共に消えてしまいたい。
 この願いが叶わないことはわかっている。多くの犠牲の上に立つわたしが楽になれるわけがない。たくさんの世界を壊してきたわたしが救われるわけがない。胸を掻き毟りたくなるような衝動を飼い慣らして、わたしは明日も生きていく。生きなければならない。
 目を開けて、髑髏の仮面に口付ける。腰に回った手に抱き寄せられた。
 赤々とした燈の元で、引き合った光と影がひとつになった。