迷いの森

 朝目が覚めて、「夢でよかった」とほっとする夢と、「どうして夢なんだろう」と少し残念に思える夢がある。
 昨日見たのは後者だった。
 御伽話に出てくる感じの、陽だまりの落ちる静かな森の中にいた。そうすることが当然のように、森の奥へと伸びる細道を進んだ。しばらく歩き続けると、樹のない開けた場所に出た。
 辺り一面オレンジ色の花が咲いていた。濃いオレンジと薄いオレンジのグラデーションが美しい、幅広の花びらを持つその花を見たことがあるけど、名前が出てこない。
 暖かい風を浴び、鮮やかな花畑の真ん中に座り込んで、名前を思い出そうと俯いて花を見詰めるものの、頭文字さえ思い出せない。
「絶対知ってる花なんだけどな」
 微苦笑して顔を上げると、花畑の先に、今まで歩いてきたのと同じ踏み慣れされた道があることに気付いた。道は、日の届かない昏い森へ続いている。うしろの森とは雰囲気が全然違う。生臭く湿った、絡みつくような闇が広がっている。昼間なのに、ほう、ほうと梟が鳴いている。
——この先に行っていいのかな。ダメな気がする。
 剣呑と眉を寄せると、一匹の黒い蝶がひらひらと飛んできた。蝶はわたしの周りを舞って、目の前の花に止まった。太陽の光さえも打ち消してしまいそうな、夜の闇にも似た黒い翅がゆっくりと閉じて、開く。何度かそれを繰り返して、蝶は飛び立った。
「あ、待って」
 蝶を追わなくちゃいけない気がして、立ち上がってあとを追い、来た道を戻った。ふと足を止めて振り向くと、オレンジ色の波がうねっていた。
 きれい、と零し、花の名前を思い出したところで目が覚めた。

「昨日の夜、夢を見たんです。マリーゴールドの花畑の夢」
 食堂に向かう通路の途中で、なにげなくそんなことを言った。
 隣を歩くテスカトリポカは、端正な顔をこちらに向けた。「どんな夢だった?」
「暖かくて、きらきらしていて、きれいな夢でした」
 瞼の裏に残る夢の名残りに、笑みが漏れる。
「マリーゴールドって、『死者の日』になると、あの世にいる死者を導くために飾られるって読んだことがあるんですけど、アステカ文明にもあったんですよね、死者に対するお祭り。たしか、あなたを祀る祭典……『死の小祝宴』ですっけ?」
 テスカトリポカは「へえ、死者の日の小祝宴ミッカイルウィトントリを知っていたか」と、感心したようにサングラスの下で目を細めた。
「うん」
 照れくさくなってはにかむ。彼をノウム・カルデアに召喚して間もない頃、彼のことを知るために、凡人類史に残っているアステカ文明、とりわけテスカトリポカについて書かれた文献をたくさん読んだり、ダ・ヴィンチちゃん情報で学んだのは内緒だ。
「マリーゴールドはいくつもの小さな花が集まって咲いているように見えるだろう? オレたちの国では『二十の花』という意味を持つ言葉で呼ばれていた。オマエの言う通り死者に対する饗宴もあった。それが『死者の日』のルーツだ。形は変わっても、廃れることなく現代(いま)でも続いているとは……文明は滅んでも、信仰は変わらんものだな」
「陽気なお祭りだって聞きますよ」
「陽気か。はは、あの陰気な死の夫人ミクトランシワトルに聞かせてやりたいくらいだ」
楽しそうに笑って、テスカトリポカは片手をジーンズのポケットに突っ込んだ。
「あの世とこの世の境目には、いつだってあの花が咲いている。オマエは来た道を戻るという正しい選択をした。つまらない死に方をしなくてなによりだ」
「……え?」弾かれたように視線をテスカトリポカに向ける。白い横顔は冷たいほどに美しい。胸の下で心臓が大きく跳ねる。「なんで夢の内容を知ってるの?」と訊ねる代わりに足が止まった。
 あの世とこの世の境目に、わたしがいた?
 テスカトリポカの背中を凝眸したまま、瞬きを繰り返すと、薄れていく夢が鮮明に映像として頭の中に浮かんだ。明るい森、マリーゴールド、昏い森、黒い蝶……
「もしかして、わたしの夢にいたの?」
 食堂の前で、テスカトリポカは立ち止まって、ゆっくりとこちらを向いた。
「さあ、どうだろうな」
 今を生きる死は、意味ありげに口の端を持ち上げて肩を竦めた。
 空っぽのお腹が鳴った。わたしは生きている。
 ああ、夢でよかった。