運よどうか微笑んで

 今夜唯一の客であり、常連であるテスカトリポカは、舐めていたバーボンを飲み干すと、腰を上げ、ゆっくりとビリヤード台に近付いていった。
 磨き上げられた木製のレールを撫でながら、彼は「西洋の娯楽に興じるのもたまにはいいな」そう言ってヘッドで足を止めた。彼の目の前には、ひし形に置かれた的玉が並んでいる。天井からのスポットライトを浴びて、頂点(エイペックス)の玉が艶やかに照っていた。
「付き合ってくれよ、旦那」
 テスカトリポカは背後のスタンドから立て掛けてあったキューを取った。
「生憎、今の私はただのバーテンだヨ」
 視線を客に留め、グラスを磨く手を止めずに言う。
「客はオレだけだろう? ひとつ勝負といかないか」
 テスカトリポカは肩を竦めて微苦笑した。それにつられて口髭の下で笑う。たしかに、彼のいう通りだ。少しくらいなら付き合ってもいいだろう。
「神と勝負できることを光栄に思うべきかな?」グラスを置いてカウンターを出る。「ナインボールで勝負といこう」
「そうこなくっちゃな」テスカトリポカは白い歯を見せて笑った。
 五ラック先取で勝利とし、バンキングの結果、先手はテスカトリポカとなった。
「オレが勝ったらとっておきを奢ってくれ」
「私が勝ったらどうする?」
「オレが一杯奢るよ」
 弾かれた手玉が的玉の群れに命中し、散らばった。彼のブレイクショットはなかなかのものだった。しかし、ビリヤードは紳士のスポーツだ。負けられない。

 テスカトリポカを探して『BAR蜘蛛の巣』を訪れると、今夜は珍しく閑散としていた。
 客はテスカトリポカだけのようで、彼はバーテンダーであるモリアーティとビリヤードに興じていた。緑色の布が張られた台には、白い球がひとつだけあった。
「よう、お嬢」
「珍しいですね、ふたりして」
「なに、ちょっとしたお遊びさ」
「勝利の女神は私に微笑んでくれたヨ」
 モリアーティは上機嫌だった。テスカトリポカは眉間にシワを寄せて「いいところまでいったんだがね」溜息をついた。
「ビリヤードって難しそう」
「やってみるか?」
「え、でも、なにもわからないですよ、わたし」
 首と一緒に両手を振ると、テスカトリポカは破顔した。
「オレが教えてやるよ。ああ、その前に」彼はカウンターに戻っていくモリアーティの背中に視線を移した。「旦那、マスターに一杯頼む。オレの奢りでな。約束通りアンタにも奢るぜ」
 カウンターの向こうで、バーテンダーは目尻のシワを深くさせて不敵に笑んだ。
「未成年のマスターにもとっておきを出してあげよう。極上のイチゴミルクをネ」美味しいヨと結んで、モリアーティはウインクをした。
 白い球を打って、番号の振られた順にカラフルな玉を(つ)く。ビリヤードのルールはそれしか知らない。正直にそう告げると、テスカトリポカもモリアーティも「それでいい」と言ってくれた。
 実際に撞く前に、テスカトリポカはさらに詳しいルール(ナインボールというもの)や、キューの持ち方や、動かし方を教えてくれた。難しいショットが決まったらかっこいいだろうなと思ったが、初心者なのだから、技術は必要ないし、まだ早い。初歩的なことをひとつひとつ覚えた方がいいだろう。
 それはさておき。
 夢中でテスカトリポカの指導を受けているが、距離が近い気がする。
 実際に教わったフォームで玉を撞いてみた時は、横に立つ彼の手がわたしの手に覆い被さった。
「これでいいの?」
 ふと横を見れば、テスカトリポカの端正な横顔がすぐそばにあった。彼が「これでいい。うまいな」とこちらを向いて口元を緩めた時は、顔が火照った。
 いつもならあまり意識しないのに、今夜ばかりは、距離の近さにドキドキしてしまう。燈の少ない店内の雰囲気がそうさせるのか、それとも彼と男女の仲であることを意識してしまうからなのかわからなかった。
 何度か手玉を弾くうちに、なんとなく感覚が掴めてきた。打つ角度だったり、微妙な力加減が大事だ。ビリヤードは奥が深いスポーツであることを知った。
「さあ、実戦といこうか」
「お手柔らかにお願いします。あ、はじめる前に水分補給してきます。イチゴミルク飲みたい!」
 キューを片手にカウンターに行くと、モリアーティが特製のイチゴミルクを出してくれた。上にはホイップクリームが段になって盛られていた。太いストローまでピンク色だった。
 よく混ぜて飲むと、とても美味しかった。ミルクはコクがあって濃厚で、甘いだけじゃなく、ごろごろした苺の果肉が甘酸っぱくてクセになる。
 半分ほど飲んでからテスカトリポカの元に戻った。
「先攻後攻はじゃんけんで決めましょう」
 握り拳をさっと出すと、テスカトリポカは「いいだろう」頷いて、わたしと同じく拳を握った。
 手を突き合わせて「じゃん、けん」合図を出す。「ぽんっ」で勢いよくパーを出したわたしは負けた。彼の拳が開かれる気配がなさそうだったのに、大きな手は一瞬でチョキになった。
「手加減はしてやる。そうだな、ハンデを付けよう。1ターンで交代制にして、おまえさんが9番を落としたら勝ち。オレは6番以上を入れたら1ポイントにしよう」
「わかりました」
「じゃあ、オレからだ」
 台の前で上半身を倒し、オープンブリッジのスタイルで手玉を狙う彼の手がレールにのる。長い指がきれいだと思った。びんと伸ばされた示指の先で、黒い爪が照明の金色の光を反射させている。サングラスのレンズの向こうでは、切れ長の目が鋭く細まっていた。まるで獲物を狙うジャガーのようだ。
 引いていたキューが動いた。先端が手玉に当たって、乾いた音が跳ねる。真っ直ぐに転がった玉は的玉を散らばらせ、ふたつポケットインした。
「そら、やってみろ」
 台の横に立ち、じっと的玉を見詰める。手玉をどうやって撞くか悩む。9番の玉が煌めいて見える……肩にのしかかる緊張感が照明に照らされる。イチゴミルクの甘さが恋しくなった。彼に勝てたら、イチゴミルクをもう一杯飲もう。未成年だけど、勝利の美酒というものを味わってみたい。
 テスカトリポカと過ごす夜がゆっくりと更けていく。勝負の行く末は、9番の玉だけが知っている。