酩酊と寵愛

「神は依怙(えこ)贔屓をするものだが、キミはしないネ」
 カウンターの向こうでワイングラスを磨きながらモリアーティが言った。藤丸立香との思い出話をしている時のことだった。
「しかし、実のところ、キミはマスターのことを気に入っているんじゃないのかネ?」
 モリアーティは天井のスポットライトに向けてグラスを翳し、目を細めた。それから繊細な手付きでまたグラスを磨きはじめた。
「生憎だが、誰であれオレは特別視はしない。そういう性分でね。神格にも関わる」
 モリアーティの視線が一刹那正面に向く。今晩唯一の客であるテスカトリポカの手の中で、バーボンで満たされたグラスが傾き、重なった氷が固い音を立てた。
「オレはアイツを戦士として認めているが、それだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。ああいや、一応顧客として見ているか……」
「特別視ができないというのも大変なものだ」モリアーティは忍び笑いをして、磨き上げたグラスを頭上のホルダーに吊るした。「男女の仲なのに」
「……知っていたのか」
 虚を突かれたのか、テスカトリポカは目を丸くさせた。
「秘密を持つ乙女は美しいものだよ」
 白い口髭の下でモリアーティの唇の端が持ち上がる。テスカトリポカは曖昧に薄い笑みを浮かべると、バーボンをあおった。反った喉で突出した喉仏が上下する。上等な酒は神の喉を熱くさせ酩酊へと(いざな)うが、本心を語らせるほど口を軽くさせることはないだろうと、モリアーティは思った。
「もう一杯もらえるか。今度はストレートで」
「今夜はよく飲むじゃないか」
「旦那の話を肴にしているからな。オレの知らないアイツの話を聞くのは中々興味深い。酒の肴にふさわしいってもんだ」
「マイガールの話はまだまだある。じっくり聞かせてあげよう」
 次はどんな話をしようか——。
 記憶の糸を手繰りながら、モリアーティは客の望み通り、おかわりを出した。

 眠りが浅かったのか、弛んでいた眠りの糸が張って切れた。
 ふっと瞼が持ち上がる。暗くて何も見えないが、たった今、ドアが閉まる音がした。夢でなければ、誰かが部屋に入ってきたことになる。
「誰?」寝ぼけ眼で寝返りを打ち、顔をドアの方に向けて誰何(すいか)する。
「オレだよ」男の声が仄暗闇を割った。聞き慣れた声だった。
「テスカトリポカ? どうしたんですか?」
 手を突いて身体を起こし、目を瞬かせる。人感センサーに反応した足元の夜間灯がぽつぽつと灯って、部屋の中はうっすらと明るくなった。
「悪い、寝かせてくれ」
 薄らぼんやりと照らし出されたテスカトリポカは、瞬きひとつの間に半裸になって、わたしの隣に雪崩れ込んできた。男ひとり分の体重を受けたマットレスが深く沈む。ひとりでは十分広いベッドも、ふたりでは狭い。半分譲ったとしても、ブランケットの下で身を寄せ合う形になる。
 テスカトリポカがこんな夜更けにくるなんて珍しい。のろのろと身体を横たえると、アルコールのにおいが漂ってきた。きっと、モリアーティのバーで飲んできたのだろう。
「教授とおまえの話をしていたら、顔が見たくなってな」
 テスカトリポカは折り曲げた腕を自分の頭の下に敷いた。
「わたしの話?」
「なに。悪い話じゃない。教授の方がオレよりおまえとの付き合いが長いだろう? だから、オレの知らないおまえの話を色々と、な」
 意味ありげにテスカトリポカは言葉を切った。モリアーティは、彼になにを話したのだろう。
「そら、そう縮こまるなよ」
 背中に手が回って抱き寄せられ、距離が詰まり、彼の首元に顔が埋まった。身体が密着して、間で乳房が潰れる。テスカトリポカの剥き出しの胸と腹は硬い。彼が「男」であって、自分が「女」であることを意識してしまって、顔が熱くなった。彼の背後で夜間灯が消えて、部屋の中は再び眠りの闇に包まれた。
「ち、近い、です」
 絞り出した声は、うるさいくらい高鳴っている心臓の鼓動に打ち消されてしまいそうだった。
「厭か?」
 わたしの意思を確認する問い掛けに、肺腑に溜まっていた酸素がほうっと漏れた。わたしが厭だと言えば、彼は部屋を出るだろう。それは、寂しい。
 身体を巡る血はすっかり熱くなっていた。答える代わりに、身じろぎして身体を押し付ける。テスカトリポカは喉の奥で笑った。
「おやすみ」
 額に口付けが落ちて、小さなリップ音が弾む。
「おやすみなさい」
 瞼を下ろす。心臓はまだ落ち着いてくれそうにない。体温が溶け合って、眠気が意識に被さってくる。

 翌朝、テスカトリポカの腕の中で目が覚めた。彼の腕は重たく、抱擁から逃れることはできなくて、部屋にマシュが入ってくるまで身動きがとれないでいた。
 部屋の燈を付けたマシュは、半裸でわたしを抱きかかえるテスカトリポカを見てかなり驚いたようだった。
 マシュの動揺の声を背に、テスカトリポカは悪びれた様子もなく、ただ顔を顰めて「クソ、二日酔いだ」と額を押さえて呻いた。
 その姿がほんの少し可愛らしく思えて、ちょっとだけ笑った。