死と乙女

汝の手を差し伸べよ。ああ、見目麗しき乙女よ。
——マティアス・クラウディウス

 閉ざしていた瞼を持ち上げると、目の前は真っ白だった。
 辺りを見渡してみる。濃い霧が立ち込めているのだと気付くのに時間が掛かった。
 ここはどこだろう。見覚えがあるような、ないような……
 おそるおそる一歩二歩と踏み出し、慎重に歩き出す。ミルク色の景色はどこまでも続いていて、足を止めただけでも方向感覚を失ってしまいそうだった。
 やがて、遠くにぼんやりと灯る燈を見付けた。安堵して燈を目指して進む。
 燈の正体は焚火だった。デジャヴを感じた。火の周りには焚火を囲うように丸太があって、そのうちの一本に、テスカトリポカが腰掛けていた。
「よう、お疲れさん」
「えっ……」
 瞬きを繰り返し、彼を凝眸する。吐息が漏れた。この場所がテスカトリポカの領域だとしたら、ここにくる方法はただひとつしかない。
「わたし、死んだの?」
 薄く開いた口からようやく言葉が出た。
「いいや。オマエが眠っている間にオレがちょいと邪魔しているだけだ。死んだワケじゃあない。まあ、座れよ。少し話をしよう」
 促されて、彼の向かいに座った。いつかのように「クソ度胸か?」とは言われなかった。
「静かですね」
「ミクトランパを再現したからな」
「ああ、だからわたしは今こんなに満たされているんですね」
 テスカトリポカは小さく笑った。それから懐から煙草を引っ張り出した。箱を軽く揺すって、出てきた一本を咥え、今度はオイルライターを取り出し、火を点けた。わたしなら、横着して焚火で火を点けてしまうところだ。
 真っ直ぐに立ち昇る紫煙が霧に溶けていく。
「こんなに静かだと、しばらくここにいたくなっちゃいます。最近戦い続きで、あまり休めてなかったから……」
 火に視線を溜めて本音を零して、膝を抱き寄せる。夢の中なのに、暖かさに微睡んでしまいそうだった。
「しばらくとはいわず、ずっといてもいい」
 視軸を持ち上げる。サングラスのレンズの奥に並ぶ双眸は、火の向こうから真っ直ぐにこちらに向いていた。
「今ここでオレに手を差し伸べるのなら、オマエが望む安息を与えられるが……どうする?」
 瞬きと呼吸を忘れた。試されている。
 今の言葉は優しさではない。
 規範と公正の象徴である彼は、気紛れで破壊的な側面も併せ持つ。人を陶酔させて自らの足を踏み外させて崖から落とし、娘を誘惑したこともあれば、他の神を甘言で陥れたこともあると聞く。
 テスカトリポカのいう「安息」が死であることは明瞭だ。ここで手を伸ばせば、わたしは死へと誘う神の腕の中で永遠の安息に沈むことになるだろう。彼はわたしを惑わそうとしている。邪悪な影が足元に這いよって、心に肉薄する。
「やめておきます」
 死から逃れられない運命を背負った乙女が、傍らに立つ死神に恐れ慄くように首を振る。
「わたしは、戦わなくちゃいけないから」
 テスカトリポカは指に煙草を挟むと、唇の間から煙を噴き出した。
「気紛れでオマエを試してみたくなってここに呼んだワケだが——」
 火の中で、くべられた枝がぱちりと弾けた。
「合格だ。正しい選択をしたな」
「不合格だったら、わたしはどうなっていたんですか?」
「わざわざオレを失望させる選択をした末路を訊くのか? やめておけ。後悔するぞ」
 神は曖昧に笑い、口元に煙草を引き寄せた。
「オマエに甘美な永遠は似合わない。命を燃やして戦い、がむしゃらに前へと進み、未来を掴み取ろうとする……それでこそオレが祝福すべき戦士の姿だ。だが今は、刹那の安息に浸っていけ。休む間もなく戦い続きだったからな。安心しろ。朝には目が覚める」
 テスカトリポカはそれ以上なにも言わなかった。
 煙草の火口が赤々と明滅するのを一瞥して、目を伏せる。恍惚に似た静けさだけが互いの間にあった。穏やかな霧の中、火の傍らで、美しい死が烟っている。